弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

ツイッターで師が太極拳の陳式と楊式について人と論じ合っておられるのを読み、自分(楊式の流れをくむ鄭子三十七式)の立ち位置を知る。鄭子は最初から他力で動く事を狙っているように見えるとの指摘に対し、然り、と師は答えておられた。師から学ぶ私は「扉を開く」ことをしないかぎりやる意味がないのだと思った。扉を開かなければ他力と触れられないからだ。

武術90分、スポセン。

早めに行って師に内観の仕方を教わる。一人でしたあとは、向かいあって接触点から静かに相手のことを「聴く」。それから座り稽古。聴きながら倒す。聴きながら吸着し相手を引き寄せる。扉を開いて相手に耳をすませること。それが「受容」だ。

時間が始まってからは、まず一人で自分の中のつながりを確かめる。起勢、収勢、手揮琵琶〜靠など。それから予習でしたことの続きをやった。聴き、相手を吸い寄せ、引き込む。たとえば、単鞭で相手の手を引き寄せる。捨て身投げで相手の首を引き寄せる。ゆっくりとした技の掛け合い。単推手。寝技。

今日悟ったのは、受容とは好悪の情とは無関係になされるものだということだ(そんなことは1年も前から言ってるんだよと師は仰っていたが)。つまり相手が嫌いでも受容できないことはないし、好きでも拒絶していることがある。

今日学んだもう一つは、稽古そのものについてのこと。未熟さは稽古のよしあしに関係ないということ。それは瀬尾さんに次のように言われて考えたのである。「Sさんは稽古で自分ができなかったら、何かがつかめなかったら無駄と考えてるかもしれないけど、そんなことはない。できないことが無駄にならない稽古の仕方があるんです。そういう稽古ができないことこそがSさんの問題で、Sさんのために、もったいないなと思うんです」。

自分のためにも相手のためにもなる稽古の仕方。そうした稽古ができるかどうかは技術の巧拙と関係ない。私は「未熟ですいません」みたいな感じでずっとやってきたけど、それは未熟な自分をまず守ったうえで「私は未熟なんだからあなたが我慢すべき、大目にみるべき」と言っているのと同じだったと思う。傲慢だったし、事案は未熟さに関係なく改善できることだった。

自分一人で稽古しない。閉じない。師の言葉を借りれば、「稽古なんだからダメなら失敗ということで、負けたらいいじゃん」。我を離れ、相手のパーソナリティーに寄り添えるか。一緒にやろうとしているか、一緒によくなろうとしているか。稽古の趣旨がわからない時はもっと相手と喋ろう。その場でできなくても、稽古の仕方や方向性が間違っていないことが大事なんだ。

稽古相手に対して「下手なパートナーですまない」、師に対して「教えても何にもならない弟子ですまない」と感じるのは、「下手なパートナー」=ダメ、「何にもならない弟子」=ダメ、という価値判断が働くためだが、ダメな理由をそこに転嫁して逃げを打っていたとも言える。

下手でもパートナーとして相手の役に立つありかた、何にもならなくても弟子として師の役に立つありかたが、あるのだ。「ダメなんです」と訴える私にいつも「ダメじゃないようにすればいい」と師が言われるのは、きっとそういうことだ。

もう一回書いておこう。「扉を開く」ことをしないかぎりやる意味がないのだ。