弟子のSです

武術の稽古日誌

ソラくんが行く

師が伝えたいのは技術そのものでなく、技術に対する考え方。それを受け取って師から離れるのが正しい弟子のありようだという。俳聖芭蕉とその弟子曾良の道行きになぞらえ、先日師が図解してくださった、その図を公開しよう。

芭蕉と曾良.jpg

旅の道行きでソラくんが見るのは芭蕉その人ではない。芭蕉の見る松であり、海である。正確には芭蕉が「どのように」松を見、海を見るかを見る。師が、何から、何を受けとり、どう歌に詠むのか。

修行が成就すればソラくんは芭蕉から離れるのだが、そのとき彼は松を見れば松に、海を見れば海に芭蕉を見る人になっている。彼は万物に師の遍在を感じる。成長した弟子は師に会いたいと思わないだろう。

(師が遍在する弟子はそれでいいとして、師の方は弟子に去られて平気なのかと思うが、師はかつて、噛んで含めるように次のことを私に言って聞かせたのである。「Sさん。Sさんは気づいてるかどうかわからないけど、弟子を持つって全然楽しいことじゃないんですよ」・・・。)

さて師に随身する弟子の注意すべき点は、そこで目にする師の行動や言動は大概自分の理解を超えているということだ。これは師が度外れた変人だという訳ではなく(その可能性も皆無とは言い切れないが、それよりも)、認識領域の差によるものだ。つまり認識できる範囲の限られた人間には、認識外の領域を見ている人間の行動や言動は理解できないということ。

たとえば、白いものを師が黒と言ったとしよう。ここで弟子は「いや白です」と自己主張してはならない。師は自分の認識以上のものをそこに見ているのだから。さりとて「黒ですね!黒です!」というのも盲従である。修行態度として望ましきは「白いものを先生が黒と言っているなあ」、これである。見聞を我を入れずにそのまま受けとること。