弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手と子供空手を見学。

護身術は一昨夜に引き続き「陽の力と陰の力」「丹田(骨盤)由来の動き」。力の質を変えることで、押すのを止められてから押す、突きを止められてから突く、という稽古をした。どちらも陰の力を用いる。

背負い投げから払い腰の稽古で受けをしていて、相手の男性が内側に足を入れてくるのを「外からですよ」と一言伝えただけで、すぱーんと技がかかった。彼ができたのが嬉しかったけど、それとは別に考え込んでしまった。だって、その一言で技がかかるようになる人がいるのに、それを言う私がなぜできないんだろう?

背負い投げのためにはまず相手を自分の腰に載せるのだが、重量のある相手だと私はつぶれてしまい、背負えない。相手を背負うとはどういうことか。何のためにするのか。代替手段は何か・・そもそも、対面した人を床に転がすとはどういうことなのか・・ううむ。

続く太極拳では「型稽古」と「推手」の性質の違いを禅宗の二派に絡めて教わる。

禅の二派とは臨済宗曹洞宗であって、前者が座禅を手段としてそれを通して漸次的に悟りに向かうのに対し、後者は座禅がいきなり目的、座ることがすなわち悟りであるとする。いわゆる只管打坐・修証一等というものですね。

これを太極拳の稽古に当てはめると、段階を踏んで上達に向かおうというのが型稽古で、達人をミラーリングすることで一発で極意を得ようというのが推手ということになる。我を張るのがよくないと言われるのは、それがミラーリングの妨げになるからだ。型稽古と推手は次のように連関する。

型が良くなると我が無くなる→我が無くなるとミラーリング能力が高まって推手が良くなる→推手が良くなると極意を得て型がさらに良くなる→・・・

第一段を繰り返し稽古。用法は倒輦猴(とうれんこう)をやった。

幼児空手で師は生徒を座らせて「聖人」という言葉について説明された。「聖人の聖は耳と口の王と書きます・・正しく聞いて理解し、正しいことを話す人」。子供たちは神妙な顔をして聞いていた。五感の使用にノイズやバイアスが入らない人。ふむふむ。

子供空手では風の型を観察。護身術の時間に稽古した、丹田から手足を連動させる動きと似ている。流れるように動作がつながっていく。師の動きは本当にきれいだ。なんていうか、私は本当にダメだな。人を倒すにあたり具体的に何がダメなのかはっきりさせて、一つ一つ工夫してつぶしていくしかないのかな。ごまかさずに真っ当に下手をやるというか。

子供の個性は十人十色で見飽きることがないが、なかでも興味深いメンタルの崩れ方をする子がいて、関心を持って見ている。稽古中、何がきっかけなのか、あれっと気がつくと背中を丸め、壁に向かって絵に描いたように落ち込んでいる。一旦そうなったら大抵その日は「うんともすんとも」なんだけど、翌週になるとケロッとしてやって来る。いつ頃どうやって復活してるのかな、あれ。

sunset_tanashi.jpg iPhone6で撮影