弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

護身術では太極拳の型を通じて相手とつながる稽古。楼膝拗歩、斜飛勢、手揮琵琶、雲手。

彼我の対立、つまり私とあなたは違うという認識、それは私の脳が作り出した妄想で、

世界はリアルにただそこにあるだけで、分裂などしていない。

私「でも、たとえば先生と私とは体も命も別の個体です」

体も命も別じゃない。

ナメクジにしてみれば床と人間はつながった連続体の凹凸でしかない。

なぜ、つながって寝返りをすれば相手も倒れるのか、といった稽古の意味が全身全霊で理解されていない。

対立構造を消す、という趣旨の稽古なのである。たとえば手揮琵琶では琵琶を抱える要領で相手の腕をこちらの両手で左右からきゅっと支える、すると真っ直ぐの腕を同じテンションの腕が掲げるかたちになり、相手とひとつながりになる。(つながったかどうかはこちらの動きに応じて相手のひざやつま先が浮くのでわかる。)つながったまま相手の力と同方向に(対向しているものを振り向くなどして)動けば、こちらが筋力を用いなくても相手は自らの力の方向に崩れる。対立構造をそのままにして相手をコントロールしようとすれば力が要るに決まってる。

太極拳の時間にも関連した稽古をする。

太極拳には様々な流派があるが、それはそれぞれの土地に応じた発展を遂げた結果である。山の流派、里や低地の流派・・たとえば里の泥地では足を取られないよう軸足を固定した歩法が編み出された。これなどは「重く安定させる」工夫である。一方で先に書いたような、相手の腕を掲げて水平に固定するといった「軽く動かしやすくする」工夫もある。

護身術の時間には主に後者の用法を稽古したが、太極拳ではこれに加え、前者の安定して立つ稽古を金鶏独立や推手を通じて行う。

人間の地面との接点は右足と左足の2点と捉えがちだが、片足をよーく観察すると指の付け根とかかとの2点に重心が乗せられる構造になっている。なので左右の都合4点で接地していると意識して立つと安定する。片足立ちの際に「足全体でぺたりと判子を押すように」立ちなさいと指導されるのは、2点の一方に重心を偏らせないということだろう。

両足立ちでも片足立ちでも、安定しているとき体軸は地球の中心に向かっている(これも対立構造がなくなった状態と言えましょう)。站椿(たんとう)という、ただ立つ稽古をしていると、地球の中心に向かって足が「杭のように刺さる」という感覚がよくわかる。片足立ちは金鶏独立や左右分脚がよい稽古になるが、まだまだ安定しない。回る独楽が静止しているように見える状態を「独楽が眠る」と表現するそうだが、私の立ち姿はまだ眠りに程遠い。

幼児空手、子供空手の詳細はこちら

幼児空手で首投げを稽古したが、頭を左右に揺すぶって最後に倒すのも、相手とつながっていればこそ。しかし現状ではつながって倒すと「共倒れ」になりがち。

投げの型の一段を覚えたので瀬尾さんに相手になってもらう。覚えただけでそれぞれの投げはまだ全然「投げられる投げ」になっていない。肝心なところを雑にやらないこと。

子供空手では寝技の型からオモプラッタをやった。要領をついに覚えた。あとはできるようになるだけだ。オモプラッタという技名は、それもそのまま「肩甲骨」の意だと瀬尾さんから聞いてすっかり得心し、間違った形でかけている子のを直してあげたらば、その子は「先生これでいいの?」と師だか瀬尾さんだかに確かめている。信用がなくたって傷つかないぞ。

目を閉じて手の感触だけでする双推手の稽古。ここですべき実務とは「感触から情報を得るために手に集中する」ことだけであるはずだが、私の集中は「相手にくっつく」ことに向かいがち。なぜならば物理的にそうしていないと「怖い」からだ。結果どういう姿勢になるかというと、腰が引けて(怖いから)腕は前に延びる(くっつかなきゃと思うから)。恐怖が拒絶を作っている。打たれたっていいじゃないすかと瀬尾さんは言う。骨を丈夫にしよう。牛乳を飲もう。

子供の組手を見ていて、ある子の動きがいいことを瀬尾さんと話し合っていた。基本の受けがしっかりしていて蹴りがうまい。姿勢が崩れない。幼児空手から通っているというその子は時々何かの拍子で落ち込んではその日の稽古を台無しにしてしまうという、他人事とは思えないメンタルの持ち主なのだが、翌週になれば笑顔で道場にいる。そうやって無邪気に成長している。努力というより、ただやっている。彼は「ただやる」をやっている。