弟子のSです

武術の稽古日誌

柔道の形について

課題「動画を見て、形がなぜその順番で構成されているかを考える。わからなかったら、何がわからないかをはっきりさせる。」

五の形: https://m.youtube.com/watch?v=RlUNXapQSM4&sns=tw
柔の形: https://www.youtube.com/embed/WQbIE6nDD0I
古式の形: https://m.youtube.com/watch?v=pDNsAeHECkc

どれもシンボリックで、順番を考察する以前に、この形が「何」なのかがまず見えてきにくい。ヒントとして思い浮かぶのは今までに教わった次のこと。

・剣道が相手の縦軸・横軸・奥行きの軸といった「ライン(軸)を制する」ことを目的にするものなら、柔道は「相手をコントロールする」ことを目的とするもの
・稽古では、イントロの話が後続の内容を理解するために決定的に重要

そうした教えをもとに各動画を見ると、たとえば「五の形」の冒頭には、相手の胸に柔らかく手を当てた術者が数歩移動すると相手が倒れる動作が表現される。柔道が相手をコントロールするのを目的とする武術なら、そのコントロールが「いかなる術理によって」なされるかがここで説明されているはずだ。

相手の胸に柔らかく手を当てて術者が移動すると、相手は数歩後退して倒れる。この技の理合を考えるに、「ポイント(点)に手を当てる」「柔らかく接する」「その姿勢を保ったまま移動する」などが観察されることから、柔道は「点」で接して相手をコントロールする、ということが動画で表現されているのではないかと思った。背負い投げも腰投げも点で相手と接し、点対称に体を回旋させる。点でコントロールするから、中心捕りのような稽古に意義があるのだろう、と。
しかしこの「点によるコントロールのアイデア」を途中経過として師に話すと、実際にこの技をかけられた時のことをよく考えてみなさいと言われた。手を当てられて後退し、ついに倒れたそのとき、自分が「押されて後退したのかどうか」。つまり、加速装置はどこかにあったかと問われた。押された感じはなく、柔らかい陰の力を受けた感じがした。つまり加速装置はなかった(「加速」しているように傍から見えたとしても)。すると師は次のように仰った。

崖上にある岩は、何かしらのストッパー(たとえば小石が挟まっているなどして)によってその位置に留まっている。岩が転がり落ちるとしたらそれはストッパーが外れたからで、岩自体やあるいはどこかに加速装置があるわけではない。つまりこの技の理合は、「(人がそのおかげで立っていられるところの)ストッパーのない方向に圧をかける」ことにあり、キーワードは「点」でなく「ストッパー」であった。師の武術の要諦も「ストッパー(やリミッター)を外す」ことにある。だからこそこれらの動画を師が私に紹介する意義もあるのだろう。

「五の形」の冒頭の技において、胸に柔らかく手を当てられ、かかと方向(=爪先方向と違いストッパーがない)に推進力を加えられた受け手は、足を後方に踏み出して倒れないようにするが、踏み出す速度が追いつかなくなった時点でついに倒れる。ここで術者がしているのはただ「ストッパーのない方向に圧をかけ続ける」ことであった。
「手でもって胸の一点に当てるのはなぜでしょう」と師に問うと、重要なのは当てる「位置」であって、床から離れた高い部位に手を接していることを注視すべきだとのこと。言われれば既知のことであった。そうすればより少ない力で相手のバランスを崩せるからだ。
思えば「剣道=ラインの攻防」に引っ張られて「点の攻防」に寄せて考えすぎていたようだ。師の助言を踏まえて見ると、動画には相手と同方向を向いて立った術者が真横に伸ばした腕を相手の胸に当て、同じ要領で後退させて倒す動作も出てくる。これはイントロの術理を、点でなく、線で胸元に圧をかけて表現したものだろう。そして見る側がこの術理を理解して応用すれば、たとえば、圧をかける方向を水平でなく斜め下にすることで、受け手は後退できずその場に倒れる。これは我々がよく稽古するものだ。

形の内容が「何」であるかについての記述が長くなったが、課題である「形がその順番で構成されている理由」については、1. 基本の術理を提示し、その理を使って以降の形を演繹的に示す 2. 基本技がかからなかった場合の「イフ」のバリエーションを示す・・などが見てとれはしたものの、はっきりと解答に導かれるような論理的類推はやはり難しい。現時点で考えるのは、「柔道の形がその順番で構成されている理由」は「太極拳套路がその順番で構成されている理由」と大分違っているのではないかということだ。つまり、はからずも、柔道の動画を見ることが「太極拳らしさとは何なのか」を考えるよすがとなった。

形で大切なのはイントロといったが、柔道の形のイントロはというと技の理合を「抽出」したもので、いわば公式の提示であり、構成において順番に必然性がある。いっぽう太極拳套路においてはイントロに起勢という動作を行うが、そこに抽象的な要素はごく少なく、むしろ「勢い(方向性)を起こす」「身体意識の変性を促す」といった実務を担う部分が大きい。その「勢」が最後の収勢において止まるまで、主体は流れに身を委ねる、というより流れそのものになる。これは柔道の形が「稽古法」として学ぶ便宜を明確に考慮して作られているのとは対照的であり、柔道と太極拳で「形稽古」自体の概念が異なることを示すものではなかろうか。

套路には「式」や「段」といった動作のまとまりがあるが、まとまりごとの順番はさほど限定的でなく、流れに矛盾しないかぎり自由に、自然に変わり得る。教室で套路していても師ですらごく自然に式の順序を(動作の順序を間違えることはあり得ない。それは不自然だから。)間違えることがあるほどだ。また意図して段を端折ったり、逆に延々と伸ばすこともする。生徒には順番を覚えていない人も珍しくない。これは師が順番を最優先にしていないことの表れであろう。

ただし順番が「変わり得る」ことと、順番に「意味がない」ことは別である。そこは師に釘を刺された。式・段の順番は変わり得るが、しかし「その順番で構成されている理由」は柔道の形と同様に「ある」はずだ。套路について「なぜその順番で構成されているか?」と問われたら、「その順番でなくても構わない」と太極拳は答えるだろうが、また「その順番でなければならない」とも言うだろう。可変であり不変。そんな言葉上の矛盾が矛盾なく成立するところが、また太極拳らしさであるように思う。