弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

新宿スポセンにて武術90分。一人稽古をしているうちに師が現れるってなんて素晴しいんだろう。先日、誰もいない道場で一人稽古した経験からつくづくそう思う。今まで師の姿を見ては怖気づいていたが、今日は後光が射しているようだった。 稽古の条件として指定された動画を見、それについてのレポートを課されていたので、課題に沿った内容。(課題の詳細は明日以降のブログに載せます) 前回り受身/前受身から反転して攻撃に備える/仰向けからの腕抜き/太極拳套路の第一段/向かい合って起勢、隙を打つ/馬歩站椿で向かい合い、両手で相手を押す/組手 時間の半分ほどを組手にあてたかと思う。師の配慮がありがたい。避けて通りたい一方でなんとか攻略したい組手だ。相手をやっつけたいというより、組手をやっつけたい。 レポートを書くのに何度も動画を見、イメトレは万全と思って臨んだ今日の稽古だったが、組手となるとやはり思うようにはやらせてもらえない。勝ち目のない相手に対して、私にできる戦い方でどこに向かえばよいのかわからない。打たれないように距離をおく、で? 懐にねじ込んで胴にとりつく、で? 嫌立ちしないで倒れる、で? 靠や按で突き飛ばす、で? 何もしなければやられる一方だし、何かするとそのぶん自分の首を絞める展開になる。私の戦いには未来がない。こんなに教えてもらっていて、どうして強くなれないのか。うわーん!!・・・・目的意識の濁流にのまれる。 組手のあとで師が、Sさんは思弁的にすぎると仰って「非思量」という言葉を教えてくださった。 昨日読んだ養老孟司の本に「西洋人にとっては意識的な自己だけが自己である」とあった。その意味で私は強烈な西洋かぶれである。養老先生によれば「しかしそれは脳科学の視点からは限界があります。実際には意識する前に脳は動き出している」。以前師からも教わったが、たとえば熱いものに触れたら「熱い!」と意識する前に脳が勝手に動いて(「反射」)手は引っ込められている。脳がどう動くかはそのときに身体が置かれた状態で決まる。だから意識を優位とするのは誤りで、大事なのは脳を、身体をどういう状態に置いてやるかなのだと。 身体は自己(意識とか魂とか)の容れ物にすぎないと長年思ってきたけれど、身体も込みで自己で、しかもその自己には意識や思考以外の世界があるらしい。それが非思量という世界らしい。うーん。