弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

護身術はストレッチやツボ押しといった、一見癒し系なことを中心に。身体への働きかけには閾値があり、ストレッチやツボ押しもある一線を越えると関節技や点穴攻めといった暴力行為に早変わり。体を知るというのは大切なことですね、といった内容。

太極拳では体幹と末端とがお互いを誘導しあう感覚を味わいつつ套路する。この、何によって自分が動いているかが曖昧になる感じは独特の気持ちよさがあり、とくにわが太極拳教室は隣室の子供体操教室からのんびりとハワイアンが漏れ聞こえてくるという環境下、脳にしばしばとろけるような平安が訪れる。つまり眠くなる。

お話は「魍魎(もうりょう)影に問う」という荘子の言葉について。魍魎(罔兩)とは影の周囲にできる薄い部分のこと。ある日、魍魎が影を「おまえ主人のいいなりに動いて、ちょっと自主性に欠けるんじゃないの」と批判したところ、影は「あんたに言われたくないわ」とは返さずに(大人だ)「いやいや私の主人にしても自主性があるかどうか、本当のところはわからない」と応えたという。

時間内ではよくわからなかったが、あとから師の説明を受けたところ、自分の意思で動いているつもりの我々自身も実は何かの影なのではないか、人間は何ひとつ自分では決定できないではないか、というところがこの話の要諦だという(詳しくは師の記事をご参照ください)。人の作為は不自然であり、作為的な動作をどんどん排除していく、というところで太極拳とリンクするわけだ。

キリスト教にも「主の卑女(はしため)」「神の木偶(でく)」という言葉があり、東西の微妙な違い、似て非なる感じが面白い。西洋思想に慣れ親しんだ目には、東洋思想はのんきでクール。

幼児空手、子供空手。「今日は強い人(瀬尾さんのこと)来てないの?」メガネのアシスタント二人のうち強い方が瀬尾さんで弱い方が私、という認識のようだ。ごくまっとうな認識なのでいじけても仕方ない、うん。自分のために稽古にお邪魔させてもらってるんだから、少しは教室の役に立てるようになろう。がんばれ私の心よ。

師と私とで組手のデモを見せた。嫌立ちしないと(これはわたし的には進歩なのだが)5秒くらいで投げられてあっさりとカタがついてしまう。情けないな・・・

感情の乱れを師に訴えることはしないと決めた私だが、師が察してしまうものは仕方ない。

稽古後「あなたは私のようにはなれない」とはっきり言われた。師のように強くはなれない。自分の強みを見つけること。独自の強みを持ったピーキーな存在になれば、人と比べて劣等感など感じるわけがないのだと。私にしかない強み・・そんなものあるのか?

自殺を思うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。(ニーチェ

祈るとは神の名において死ぬこと、弟子になるとは師の名において死ぬことだと思う。 私はどこにも行けず、何にもなれないかもしれないが、それは武術を離れる理由にならない。