弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古日誌終了のお知らせ

人の言葉を自分の文脈で理解するのをやめろと散々言っている。

自分の判断を武術より上に置くな。

把握したがること、納得したがること、自身の判断を重視する悪習を心底憎んで叩きつけなさい。

3年余にわたって<今日のお稽古>のタイトルで稽古日誌をつけてきましたが、とりあえず前回の記事をもって一区切りとすることにしました。師の稽古内容を後に残すのだ、これが私の武術への貢献だと青雲の志に燃えてブログを立ち上げ、私としては当初、業務日誌のような事務的な記録や言行録のようなものを考えていたのですが、師は私の修行の一環と捉えてくださって色々指示をくださり「あなた自身の成長がないなら意味はどこにもない」と仰いました。

成長とは、自分の何が間違っていたかを見返すことです。

修行における私の間違いとは、冒頭の指摘のように師を自分の文脈で理解しようとすることです。日誌では考え考え書くことで新たな発見をしたことも多々ありましたが、稽古内容を要約して文章化するにあたって、読みものとしての整合性やわかりやすさにこだわるあまり、武術本来の「あれもありこれもある」といった多様さ・自由さを狭めてしまったように思います。

「考えこむのはよくない」と考えこみつつ書いている、みたいな滑稽なことになっていて、書くデメリットがメリットを上回っていると判断した次第です。

師に言われたのは、記録文は芸術ではないのだから、書くなら万人が誤解しようのない、隙のない文章を書けということでした。それは本ブログの記事においてはおそらく達成されていません。今までの記事を公開するにあたって師は黙認はしてくださいましたが監修はしていないことは明記しておきます(あんまり間違いの酷いのはコメントで指摘してくださっているはずですが)。なるほど○○か!と断定的に書いた内容にも誤りがあるかと思いますが、責は言わずもがな稽古でなくSにあります。

これから私が語れることがあるとしたら、以下のようなことです。

武術においては「弱いけど正しい」とか「間違ってるけど強い」というのは本来ない。弱い人間が語れるのは「なぜ負けたか?」「どうすれば強くなれるか?」でしかないだろう。

相対的には誰でも「自分より強い相手よりは弱い」わけですから、つまり修行者が語り得るのは「なぜ?」と「どうすれば?」しかないはずで、今後は稽古の要約と考察を頭でひねり出すのでなく、記録というよりは日々の何事かへの対処・対策、将棋で言えば感想戦みたいな内容になるのかなと思います。

ブログには毎日70~80人の方が訪れてくださり、アクセス数も去年よりずいぶん増えていましたので、もしかすると師の稽古内容を知るのを楽しみにしておられた方もいらっしゃるかもしれません。私も稽古のたびに<今日のお稽古>を長時間かけて記す(なにしろ遅筆なので)習慣がついていて、そのルーティンがなくなれば生活が大きく変化するはずですし、面と向かうと師とろくに話せない私には<今日のお稽古>がその日考えていたことや出来事を師に伝える手段でもあったので、それがなくなるのは正直とても不安です。しかし、決めたのです。

修行がこれからどうなるか私自身わからなく、ブログはこのまま終わってしまうかもしれませんが、生きようと意思するかぎり武術は終わらないので、私の武術も終わりません。皆様の武術にも豊かな実りがありますように。今まで読んでいただいてありがとうございました。

自己判断、そんなしみったれたものがどうした、理より確かなものはないと師は仰る。弟子としてアウトな私なのに今も師からは宿題が出されております。やります。