弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

板橋区は小豆沢公園にて太極拳。主に第一段の型で、今まで教わったものとは別の用法を見せていただく。動画youtubeにアップされているのでご覧ください。 金曜日にうまくできたものができない。感覚や理屈でなく、構造で安定することができない。 最近、師がリツイートされていた二天一流兵法の高無宝良先生の言葉に 「師弟制では自己判断や客観的判断を停止させる。自分のためでも誰のためでもなくただやるだけ。自己判断を放棄して初めて、他者基準ではなく自己基準という軸が屹立してくる」 というのがあった。判断を棄てることで基準が姿をあらわす。自分の(バランス)感覚や防衛機制を排除して初めて構造で片足立ちができるのと同じだ。 師弟制では師への信頼において弟子は自己判断が禁じられる。にもかかわらず私は今日、師に反発心を抱いていた。不当だと腹を立てていた。 師「Sさんの今日の稽古態度は最低でした」「私の話に割り込むな。人の言葉を自分の文脈で理解するのをやめろ」(←このことについては師のブログに解説があります) 私は判断する。さらにはその判断をもとに師に意見する気持ちまで抱いている。これは師弟では到底許されぬことだ。判断して表に現すのを我慢するという問題ではなく、判断を下すことそのものが契約違反であり、 私があなたの修行に忍耐を重ねて付き合っているのであって、あなたに我慢していただく理由はない。 からである。 私は、アウトだ。 話に割り込まないように注意して聞いた稽古後の座学は、「理解」について。 理解にはツリー型とウェブ型とがあって、その違いは横糸の有無。 understanding.jpg (左:ツリー型の理解イメージ 右:ウェブ型の理解イメージ) 一つの論理を突き詰めて一つの結論を得るツリー型(上図左)が私の理解の仕方だという。ある事象Aについて順序よく考えた末に「1+1=2」という結論が出、また別の事象Bについて「1+1=2」という結論が出たとして、A・B・C・・・と無限にそれを続けていってもその上位概念にはたどり着かない。Sさんの学びは何にもなっていない、とはそれぞれの事象について「1+1=2」という答えが出た!と喜んでいるだけで事象どうしの連関に思いを致さないからだという。 これに対しA・B・C・・・という事象を縦横無尽に結んだのがウェブ型(上図右)の理解。それは全体的・相互作用的・客観的である。一つの事象に対し一つの論理、一つの結論、というツリー型の理解ではこの視点は得られない。そのためには、「私は〜」と主観的に考える癖、頭で理屈を追っていく癖をなくさねばならない。 うんうんと頷いて聴き、納得した。でも、この態度自体がよくないんだ。納得したから、肯定したからよしとする態度が。納得しなければ私は師に食い下がって、わかるまで質問攻めにしただろう。納得できないものをそのまま受け取っておくというのが苦手中の苦手だからだ。 理はただそこにあるもので、否定も肯定も必要としない。 修行において理は師の口を通して語られる。だから、師個人に対してイエスマンになることはないが、師から語られる理については自己判断は許されない。絶対服従することとしないでいいこと、その区分けが私にはすごく難しい。ほら、また、こうやって考え込んでいる。自分の文脈で理解するのをやめろと言われている、そのそばから。