弟子のSです

武術の稽古日誌

上野千鶴子さん2

きっかけは夏の初め、「ケンカ」の三文字に目がとまって読んだ『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(遙洋子)だった。時を同じくして旅行先で自称フェミニストの腕白中高年二人(どちらも護身術教室の生徒)から上野千鶴子賛を聞き、よくわからないが何か縁めいたものを感じて、この女性学の第一人者の著作を読み始めた。『〈わたし〉のメタ社会学』『女という快楽』『ザ・フェミニズム』『発情装置』『生き延びるための思想』・・「思う」の極端に少ない学者の文章を読み進むうち、社会って、世間って、そうなっていたのかー!! と、目が開かれる思いがした。

「人間は男も女も同じ。性差の前に人間」と疑わずに生きてきたけれど、彼女から学んでみれば、社会的な存在のありようが二つの性では全然違っている。なるほど女という属性は、社会の中で、高齢者・障害者・病人・年少・貧困・マイノリティ・・などと同様、「弱者」のファクターの一つであった。知ったあとでは、それを無視して人間は人間、とは(本質的には正しいとしても)ナイーブで恥ずかしくて簡単に言えなくなった。武術をやりながら、私は属性を軽視しすぎていたというか、女であることとまっすぐ向き合わずに今まで来たと思う。バカだバカだと言われて久しいが本当にバカだった。「汝は何者か」を知ることが武術の最重要課題だったはずなのに。

で、「弱者とは何者か」の解説は長くなる(国家の成り立ちから始めなければならない)ので置き、武術する私たちが等しなみに弱者であると前提したうえで、「弱者のための思想」としての武術とフェミニズムとを比較してみる。師と上野先生との違い、と言い換えてもよい。差異を考える意義があるほどに両者の言説は途中まで同じだからだ。すなわち、どちらも生き延びるための思想であること。しかし弱者が強者に追いつく・追い越すといったキャッチアップの思想ではなく、どちらも、そうした二元的な対立構造そのものの解体を考えていること。

サバイブに関して、上野先生は繰り返し次のようにいう。

逃げよ、生き延びよ。

わたしはもちろん腕力では男にかなわないかもしれない。わたしは自力で生きていけないかもしれない。けれどなぜ、だからといって、わたしが力づくで、他の誰かに従わされなければならないのか。(『生き延びるための思想』)

「弱くてどこが悪い」というのが彼女の主張である。私の中の「弱者」はここで嗚咽を抑えられなくなる。こう言って欲しかったんだ、こういう言葉を求めていたんだと。

しかるに、ギリギリのところで、武術する私は次のように自分にいう。

戦え、生き延びよ。

非暴力を唱える上野先生とは分岐する方向へ進むことを選ぶ。

道で殴られて「社会が悪い!」と叫びながら死んでいくよりクロスカウンターで倒した方が美意識に適う。

弱くてどこが悪い。そうだけど、弱いままだと死んでしまうかもしれない。それは逃げることがしばしばさらに不利な状況を招くことを稽古で学んだからかもしれないし、もしかすると社会(の構成員たる人間)を本質的に信じていないのかもしれない。理由はどうあれ、私の変革は「逃げる」より「戦う」に、「社会」より「個人」に向かう。たとえ属性が自分を弱者と規定するとしても、属性を超えた何かになりたい。強くも弱くもなく、男でも女でもなく、若者でも老人でもない何者かになりたい。(むこうみず・・・。)

3につづく。