稽古メモ
言葉が足らないのは繰り返し注意されるところ。
たとえば、以前はよく稽古の予約をするのに「〇曜日に稽古がしたいです」とだけ伝えて直された。そういう言い方をすると師は「そうですか」と返答され、話をそれきり先に進めないのだった。その言い方で伝わるのは「〇曜日に稽古がしたい」という私の気持ちだけであり、それに対しては「そうですか」と返すしかないと仰る。そして「で?」と促される。予約を取り付けようとするならば、「〇曜日に稽古したいですがご都合はいかがですか?」「〇曜日に稽古をお願いできますか?」と、打診するかたちで意図を伝え、答えを相手に委ねるのが礼儀だろうと。
「〜したいです」は希望の表明にすぎない。そこには「あとは察して良きにはからえ」というぞんざいで甘えた姿勢がある。
同様に「準備運動がまだなので今からやります」(意思の表明)も、店員の「申し訳ありません、ただいま満席です」(状態の表明)も、「で? だから何なの? どうしろと?」といった反応を招きうる。あるいは対話を打ち切る宣言となりうる。言いっ放しにせず、続けて「なのでお待ちいただけますか?」などの一言を添えるのが、相手を丁寧に扱う、もてなすということ。
「もうすぐ週末だね」「映画が見たいなあ」「銀座でいいのやってるよ」・・みたいなやりとりは、言っても大丈夫なくだけた間柄であればこそ「許される」ものだ。
失敗メモをつけ始めて以来書くことがそればかりになってますが、ちょこちょこと良いこともあります。
・腕振りが5年目にしてやっと少し要領がつかめ、師の動きに近づく端緒ができたかも。水曜稽古で師にガイドされて一つのコツを得、それから向かい合って腕振りしたら、ビフォーアフターの如くほとんど疲れずに師についていくことができた。
・骨盤の後傾と前傾を繰り返して大きく前進する、羽ばたきの発展型のような歩法。この稽古をしているとあれこれ発見はあるし、歩き方の見た目は良くなるしでいいことづくめ。ここにきて基礎錬(腕振りと羽ばたき)のポテンシャルがわかってきた。
・師「船は舳先の方向にはすんなり動くけど、横に動かそうとしたら大変でしょ」ということで、相手の指先の方向に流れる・相手の指先を方向づけることで流れを生む、という稽古をし、そのあと組手したらあまり息が上がらなかったこと。
そんなこんなで、失敗も含め、稽古しながら少しずつ、一つずつ自分をよくしていくのは楽しい。
それからこれはおまけだけれど、先日健診を受けたら善玉コレステロールが増えていた。私は食べるものについてはおよそ節制というものをしたことがないので、体の組成によい変化があれば、それは外的な環境や運動によるものと思われる。修業はヘルシーエイジングに貢献するということをここにお伝えする次第である。
失敗メモ
呼吸投げがなぜできないか考えた末、それは「合気ができていないから」と「最低限の基本動作が不確かだから」だと結論し、合気なんて一朝一夕でできるものでは到底ないのだから、稽古時間を1分も無駄にすまじと稽古前日にレポートを師に書き送る。水曜稽古でお会いした師は「読みました」とだけで感想も何も仰らず、そのかわり「ではもうできるようになりましたね」と仰った。
シャドーで呼吸投げをしたところ、もういきなり、初動からおかしいと言われる。私は自分の提出した二つの答えが正解なのかどうか不安になった。何も言われないのは正解だからだと(便りのないのは良い便り的に)思っていたが、違っているのだろうか? 稽古中にそれを師に確認すると、私の質問が師の言葉とかぶり、その時仰っていたことを聞き流してしまった。
「レポートのことはどうでもいい。私は今あなたに何と言いましたか?」と師に確かめられた時には話の意図がわからなく、聞き返すことになった。
私「すみません、レポートの答えが合っているかどうか気になって聞き損ねました」
師「なぜできないかの答えが合ってればできてるはずなんだから、できてないってことは間違いだということでしょう」
私の我の言い分(でも、今はできてないけど努力の方向性としては間違ってないということもあるんじゃないだろうか・・)
師「あなたは自分の言いたいことにこだわって私の言うことを右から左へ聞き流す。それが師の話を、というか、人の話を聞く態度ですか?」
そして師は「あなたができないのは "合気ができていないから" なんて高級な理由じゃありません」と仰って、いくつかのごく具体的なポイントを教えてくださった。各々がなかなか難しくてひどく時間がかかったが、ポイントがなんとか押さえられるようになると、洗練された形ではないけれど、技がかかった。数回成功した。それらの動きの要領は、他の技にも応用できる汎用性の高いものに思われた。自分では0.1ミリも考えの及ばなかった、かすりもしない答えであった。
模範解答を見せられてから自分の出した答えを省みると、ふわっとして、ともすれば「合気は一生かかっても身につくかどうかわからないものだから」とできないことのエクスキューズにもなり得るものだったと思う。直すべきはもっとずっと実際的なこと、そこを変えれば即効性があること、であった。
師によれば、レポートは提出など二の次で、出来映えや正誤を評価するために書かせるのではない。それは師のブログの記事にある
常に自己を点検し、補い、修繕する
稽古の一つなのだった。自分についての見えないこと、もしかしたら見たくないことを見ようとすること。誰かに命じられてでなく、自分からそれができること。
おまけ:上述の師の記事中「武術は "死にたくない" がモチベーション」といった内容の記述があるが、当日の帰途に師が、強さとは「自分がどれだけ死ににくいか」でもなく「どれだけ人を生かせるか」かもしれない、とふと仰った。それが私にも「新機軸」で心に残っている。