弟子のSです

武術の稽古日誌

同じことを百回やっても

師「あなたは病気。病識がないのが問題。個々の稽古をいくらやっても、その性根、人格を直さないかぎりどうにもならない」。

努力と根性の人は九九を百回書き取る、というようなアプローチで武術を学ぼうとするが、同じことを百回やっても賢さは増えない。それは実は努力や根性に見せかけた依存と怠惰で、自分が変わらなければ何も変わらないことをやっているのに、とにかくこの稽古をすれば強くなるだろう、という人任せでしかない。(師のツイッター

バイトを通じてできた仲良しで、仕事は超できるしルックスもいいのに恋愛だけうまくいかないという人がいる。先日も「(また)別れちゃった、うわ〜ん、呑みます〜」みたいな感じでもう「プライベート幸薄」が殆どキャラ化しているのだが、本人はいつだって真剣だ。

師の言葉は辛辣で臓腑に刺さるが、彼女を見ていると少し前向きに消化できる。K村さん、あなたは同じことを百回頑張るのでなく、おおもとのOSを換えることだと思う。OSを換えるというのは、別のマシンになっちゃうことじゃない。あなたは魅力的なあなたのまま、OSを換えることができる。

誰の言葉か出典ははっきりしないけれど、「考え方(thought)が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。ここでいう「考え方」に相当するのがOSである。「意識」「心」といってもいいかと思う。OSが行動を、習慣を、人格を、ひいては運命を(!)規定する。

K村さんはSのことを「私の精神安定剤」と慕ってくれる。でも一緒にいて上に書いたようなことを表現するのはむずかしい。武術の言葉はその希望的な本質とはうらはら、どちらかというと「平和をもたらすよりは剣を投げ込むような」ものだからだ。まずは自分のことをしよう。私こそ途上なんだから。
これからカルロス「明晰の罠」カスタネダの著作に取りかかる。師によるとカスタネダは私に似ているそうだ。どんなふうに?

「明晰の罠」

「わからないことがある」ということをも含めて、わかる、ということは、本当にかけがえがない。静かで、確かだ。

といつぞやの記事に書いたように、理解とは武器であるなあとつくづく思う昨今だったが、くだんの対話で師が

「悟ったという明晰さすら敵である」

という言葉を紹介しておられ、冷水をかけられたというか、安まっているなりに、やはり修行とは安まることがない。

その言葉はカスタネダという人類学者がインディアンの呪術師ドン・ファンから聞いたもので、それによれば、知者には「恐怖」「明晰」「力」「老い」という順序で現れる四つの敵があるという。

わかることは「静かで、確かだ」と書いた私は、恐怖という敵は凌いだけれど、目下、明晰という「敵」に当たっているのかもしれない。自分は無知であり、間違いを犯し得るという認識は持ちつつも、それでもというか、だからというか、瞬間瞬間を「わかった気」で生きている。間違いに気づくのは常に事後である。東洋の「未病」概念(発病前に病気を治す)を知らぬ訳でもあるまいに。

カスタネダの本には明晰は耽溺であり、一つの世界の囚人になることだ、みたいなことまで書いてあるらしい。手厳しい。読まないと。

武術家二人の対話

古流武術の伝承・指南を行っている剣術の達人と師との対話を音源から聞く。文字起こししながら聞いたらやたら時間かかった。
「武術家同士の交流が馴れ合いを避けるには、同意見の人より、同問題に別アプローチをしている人と交わっていくこと」と師の仰るとおり、問題意識を共有するお二方の、スタンスの違いが対話をおもしろく意義深いものにしている。弟子たる私にとっては、対比により、師が何者か(私が修めようとしているものが何なのか)を理解する助けになった。

私は気安いおしゃべり以外は滅法話し下手なので、剣術家の理路整然とした話しぶり、 言葉の選び方に感服した。人柄がベースにあるのはもちろんだが、こんなふうに自分をアナウンスできる人はいいなあ。聞き手としても痒いところに手が届くというか、師の言説のここが呑み込みにくいというところで的確な返しをしてくれる。

対話によれば師は武術家として「ぶっ飛んでる」「すごい特徴を持っている」そうだ。私のような者を教え子としていることも、そのぶっ飛んだ特徴のひとつにカウントされてるのかしらと思ったら、いたたまれないような、何か背負ってるような、複雑な気持ちになった。

武術家って何だろう。武術って何だろう。疑問に思わないだけで、実はよくわかっていないということが、対話を聞いてわかった。