弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

動きの素人っぽさ。具体的には「硬い」「我が出張っている」。師にガイドされるとそれらの欠点はすんなり改善され、柔らかく素直に動けるようになる。稽古に臨む下準備とも言えるその状態に自分でなれるよう覚え書きしておく。

当日は大変暑い日だったが道場にエアコンは付けず、窓とドアを開放し調光も明るすぎないようにした。いつもする床の拭き掃除も要らないという。自然に近いそんな環境の中で站樁する。師より口頭での指示、立つのに必要とする以外の力を全部抜くこと。耳を澄ますこと。蝉の声、子供の声・・。連想のおもむくまま、心のたゆたうに任せる。遠い夏、濡れたプールサイドの熱気。水を抜くため耳を付けたコンクリの匂い。

そこからゆっくりとスワイショウ。徐々に動きをつけていき、 突き、裏拳、横蹴り、前蹴り、コンビネーション。背中を使って体全体でしなるように打つ。相手にぶつかる拳や足先は固めず解放されている。打点でブルブルと震え、紙に向かって突くと破裂音がする。

このような段階を踏み、まるで浸透圧を同じくしたように自分と周囲との境界が心身とも曖昧になったところで向かい合い、自由推手。組手をすると、当身をしても不快さがなく、二匹の猫があばれて遊んでいるような組手になった。私の息が上がって動けなくなるまで続け、ついに床に転がり、飛び出そうな心臓をなだめる。言われて目を閉じると瞼の裏に夏空が広がった。

稽古のあと師がひょいとコンビニに入っていったと思ったら、ガリガリ君をおごってくれた。 汗だくドロドロの身にしみわたるガリガリ君であった。「これは必要経費」と仰っていたので、ここまでを学ぶべき一連の内容とする。
トドメのように通り雨に打たれてずぶ濡れになったが、「彼我の無さ」が極まっていて何がどうでも問題ない。この境地が冒頭の站樁から始まっていることを心に留めておこう。

俳句詠みは戦士である

前回の更新から今までのこと。

カルロス・カスタネダ『呪術師と私』読む。インディアンの呪術師に弟子入りした人類学者の記録で、二部構成のうち、著者が合理的説明を試みた後半部分により「最上の題材について書かれた最悪の本」と批判を受けたものだという。私のブログも似たようなものかも・・。
しかし巻末の片桐ユズル氏(ボブ・ディランの訳詞で有名な翻訳者だ!)の解説が温かい。カスタネダの飲み込みが悪かったからこそ呪術師はいろいろ喋らざるを得ず、でなければ、このような本来非言語的な精神拡大経験の意味を言語化して本にするなど至難の技だったろうと。
その通り、二人の掛け合いがおもしろく、早速続巻『分離したリアリティ』を図書館から借りてきた。

先週の火曜日には深大寺で句会があった。当日の模様は師による句会記に詳しいが、私こと「葩」の句の出来は今回も良くなかった。独自性に走りすぎて句意がさっぱりわからないと言われる。(洗足池のピエールさんだけ「僕は好きですけどね。夜9時枠のドラマで主役のガッキーが冒頭でこの句を詠んだらすごい高視聴率を稼ぐと思う」と独自なポジティブコメントを下さった。)

金曜稽古の前後に座学を受けたり、自分でも考え、句作上の問題点の理解は進んでいる・・と思う。
カスタネダによれば、呪術師の教えの目標は「知者になること」で、知者は「戦士」だそうだ。これは刃物を安全に扱い、タオルを武器に変える武術の方向性と合致する。生殺与奪の鍵を握るのは賢さと愚かさである。私、お利口になりたい。
すぐれた俳句詠みはいうまでもなく知者であろう。カスタネダを紐解きつつ、「だから俳句詠みも!」と戦士の自覚が芽生えるのだった。

同じことを百回やっても

師「あなたは病気。病識がないのが問題。個々の稽古をいくらやっても、その性根、人格を直さないかぎりどうにもならない」。

努力と根性の人は九九を百回書き取る、というようなアプローチで武術を学ぼうとするが、同じことを百回やっても賢さは増えない。それは実は努力や根性に見せかけた依存と怠惰で、自分が変わらなければ何も変わらないことをやっているのに、とにかくこの稽古をすれば強くなるだろう、という人任せでしかない。(師のツイッター

バイトを通じてできた仲良しで、仕事は超できるしルックスもいいのに恋愛だけうまくいかないという人がいる。先日も「(また)別れちゃった、うわ〜ん、呑みます〜」みたいな感じでもう「プライベート幸薄」が殆どキャラ化しているのだが、本人はいつだって真剣だ。

師の言葉は辛辣で臓腑に刺さるが、彼女を見ていると少し前向きに消化できる。K村さん、あなたは同じことを百回頑張るのでなく、おおもとのOSを換えることだと思う。OSを換えるというのは、別のマシンになっちゃうことじゃない。あなたは魅力的なあなたのまま、OSを換えることができる。

誰の言葉か出典ははっきりしないけれど、「考え方(thought)が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。ここでいう「考え方」に相当するのがOSである。「意識」「心」といってもいいかと思う。OSが行動を、習慣を、人格を、ひいては運命を(!)規定する。

K村さんはSのことを「私の精神安定剤」と慕ってくれる。でも一緒にいて上に書いたようなことを表現するのはむずかしい。武術の言葉はその希望的な本質とはうらはら、どちらかというと「平和をもたらすよりは剣を投げ込むような」ものだからだ。まずは自分のことをしよう。私こそ途上なんだから。
これからカルロス「明晰の罠」カスタネダの著作に取りかかる。師によるとカスタネダは私に似ているそうだ。どんなふうに?