弟子のSです

武術の稽古日誌

カスタネダ爆読み中

カルロス・カスタネダ
いま6冊手元にあって、気軽に読み進められる本でもないので、今夏の読書はこれで暮れていきそう。主な訳者である真崎義博訳のものを原著の刊行順に以下に挙げる。当時のベストセラーも現在ではなかなか手に入りにくいようだ。

1.『呪術師と私−ドン・ファンの教え』The Teachings of Don Juan, 1968
2.『呪術の体験−分離したリアリティ』A Separate Reality, 1971
3.『呪師に成る−イクストランへの旅』Journey to Ixtlan, 1972
4.『力の話』(名谷一郎訳では『未知の次元』)Tales of Power, 1974
5.『呪術の彼方へ−力の第二の環』The Second Ring of Power, 1977
6.『呪術と夢見−イーグルの贈り物』The Eagle's Gift, 1981
7.『意識への回帰−内からの炎』The Fire From Within, 1984
8.『沈黙の力−意識の処女地』The Power of Silence, 1987
9.『夢見の技法−超意識への飛翔』The Art of Dreaming, 1993

読むほどに(フィールドワークという体裁をとっているが、これはフィクションなのでは?)と思えてくる。修行者の聞き書きにしてはあまりにも精神的にハイパーな内容が語られるため「全てをわかった上で」書いている、主人公カスタネダ以外の書き手の所在を感じるのだ。
しかし実話か創作か、カスタネダとは誰なのか、そんなことはどうでもよくなる「真実感」がこのシリーズにはある。

いまは5の『力の第二の環』を読み始めたところ。初期四部作といわれる4までの内容を手短に言うならば、これはもうシリーズ名を『弟子のカスタネダです』にしてほしいくらいのものだ。読みながら、師ドン・ファンの語りを主人公同様に聞き逃すまいとしている自分に気づく。学ぶカスタネダの思考・心理・疑問が自分のそれと酷似している。「認識外の領域を認識する」ことに本気で取り組むという自身の経験がなかったら、これらの内容は到底理解できなかっただろうとも思う。(というか、この本を読んだだけでこの本を理解できる人なんているのだろうか・・。)

5以降を主に読んだ師によると、今後はサイキックウォーっぽい展開になっていくらしい。カルロス大丈夫かなあ。

稽古メモ

動きの素人っぽさ。具体的には「硬い」「我が出張っている」。師にガイドされるとそれらの欠点はすんなり改善され、柔らかく素直に動けるようになる。稽古に臨む下準備とも言えるその状態に自分でなれるよう覚え書きしておく。

当日は大変暑い日だったが道場にエアコンは付けず、窓とドアを開放し調光も明るすぎないようにした。いつもする床の拭き掃除も要らないという。自然に近いそんな環境の中で站樁する。師より口頭での指示、立つのに必要とする以外の力を全部抜くこと。耳を澄ますこと。蝉の声、子供の声・・。連想のおもむくまま、心のたゆたうに任せる。遠い夏、濡れたプールサイドの熱気。水を抜くため耳を付けたコンクリの匂い。

そこからゆっくりとスワイショウ。徐々に動きをつけていき、 突き、裏拳、横蹴り、前蹴り、コンビネーション。背中を使って体全体でしなるように打つ。相手にぶつかる拳や足先は固めず解放されている。打点でブルブルと震え、紙に向かって突くと破裂音がする。

このような段階を踏み、まるで浸透圧を同じくしたように自分と周囲との境界が心身とも曖昧になったところで向かい合い、自由推手。組手をすると、当身をしても不快さがなく、二匹の猫があばれて遊んでいるような組手になった。私の息が上がって動けなくなるまで続け、ついに床に転がり、飛び出そうな心臓をなだめる。言われて目を閉じると瞼の裏に夏空が広がった。

稽古のあと師がひょいとコンビニに入っていったと思ったら、ガリガリ君をおごってくれた。 汗だくドロドロの身にしみわたるガリガリ君であった。「これは必要経費」と仰っていたので、ここまでを学ぶべき一連の内容とする。
トドメのように通り雨に打たれてずぶ濡れになったが、「彼我の無さ」が極まっていて何がどうでも問題ない。この境地が冒頭の站樁から始まっていることを心に留めておこう。

俳句詠みは戦士である

前回の更新から今までのこと。

カルロス・カスタネダ『呪術師と私』読む。インディアンの呪術師に弟子入りした人類学者の記録で、二部構成のうち、著者が合理的説明を試みた後半部分により「最上の題材について書かれた最悪の本」と批判を受けたものだという。私のブログも似たようなものかも・・。
しかし巻末の片桐ユズル氏(ボブ・ディランの訳詞で有名な翻訳者だ!)の解説が温かい。カスタネダの飲み込みが悪かったからこそ呪術師はいろいろ喋らざるを得ず、でなければ、このような本来非言語的な精神拡大経験の意味を言語化して本にするなど至難の技だったろうと。
その通り、二人の掛け合いがおもしろく、早速続巻『分離したリアリティ』を図書館から借りてきた。

先週の火曜日には深大寺で句会があった。当日の模様は師による句会記に詳しいが、私こと「葩」の句の出来は今回も良くなかった。独自性に走りすぎて句意がさっぱりわからないと言われる。(洗足池のピエールさんだけ「僕は好きですけどね。夜9時枠のドラマで主役のガッキーが冒頭でこの句を詠んだらすごい高視聴率を稼ぐと思う」と独自なポジティブコメントを下さった。)

金曜稽古の前後に座学を受けたり、自分でも考え、句作上の問題点の理解は進んでいる・・と思う。
カスタネダによれば、呪術師の教えの目標は「知者になること」で、知者は「戦士」だそうだ。これは刃物を安全に扱い、タオルを武器に変える武術の方向性と合致する。生殺与奪の鍵を握るのは賢さと愚かさである。私、お利口になりたい。
すぐれた俳句詠みはいうまでもなく知者であろう。カスタネダを紐解きつつ、「だから俳句詠みも!」と戦士の自覚が芽生えるのだった。