稽古メモ
過去記事で、組手で攻撃をくらうほどに「情けない」という感情が押し寄せてくる、と書き、その理由について考察したが、最近では単に「蹴られるとなぜか悲しみ物質が出る私の脳」とだけ捉え、そうした一過性の情緒の反応は脇に置いておくことにした。重要な問題は別のところにあるからだ。
金曜稽古で師と組手したあと、例によって悲愴な気分で、打撃対策をどうすればよいか師にアドバイスを求めたところ、対策を立てることには意味がない、その問いには答えられませんと仰る。その後のやりとりも理解が追いつかず、眼前でされている説明が頭に入ってこない(こういう時はわからないままノートに書き留めておけばいいのだが)。すると師がやおら「短冊状の紙ありますか?」と仰った。ノートをちぎって渡すとそれが8片に分けられ、半分が私に返された。適当な「アイテム」を枚数分書けと仰る。残りの4片に師は何事かサラサラと書きつけておられる。
師と私の書いたそれぞれの紙片を伏せてランダムにめくる。師が書いたのは「シチュエーション」だった。出たシチュエーションに対して、出たアイテムでどう対処するか考えよと仰るのだった。以下、覚え書き。
シチュエーション「車がパンク」にアイテム「グミ」
→Sの対処:JAFが来るまでグミを食べて待つ。あるいはグミを舐めて伸ばしてパンク穴に詰める
→師の対処:通りかかった車にグミを渡してJAFを呼んでくれと頼む
シチュエーション「うんこがもれそう」にアイテム「手帳」
→Sの対処:苦しい心境を手帳に書きつける。集中することで便意が去る
→師の対処:何枚かページをちぎった手帳の上にうんこする(そのへんにしちゃうよりマシでしょう、と仰っていた)。ちぎった紙は拭くのに使う
シチュエーション「痴漢に遭った」にアイテム「ソックス」
→Sの対処:触ってくる手にソックスを被せて目印にし、ソックスをした人が犯人ですと周囲や駅員さんに訴える(電車内を想定)
→師の対処:ソックスに硬いものを入れて武器にして戦う
組手の問題は、たとえばシチュエーション「蹴られる」に対し、私の手持ちのアイテムの「何を」「どのように」用いて対処するかという、考え方の問題なのだった。考えた内容の良し悪しよりも(それも二次的にはもちろん大切だが)、大事なのは考えることそれ自体で、それこそが武術することの真髄というか、もしかしたら全てだから、師は答えられないと仰ったのだ。答え合わせを求めるのはいいが、はなから答えを貰ってしまったら、私は術者なのにすることを放棄したことになる。
アイテムをどう使うか考えるのは楽しい作業だった。シチュエーションにアイテム、というのはいかにもゲームをする人らしい発想だと思う。組手に対して、私は私の何を使えるだろうか。上記の遊びができた私にはアイデアが出せるはず。師も考え方を示してくださっていた。が、せっかくの「理解を超えたそれ」を今、思い出すことができない。
観察する稽古つづき
ツイッターでご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、水曜日、稽古場所である巣鴨のキャラクター「すがもん」を師とともに凝視、道場で再現してみました。
すがもん
by 師
by S
私の再現力にいささか驚かれた様子の師は、私の消しゴムを指し「もう一度やってみましょう」と仰った。府中市美術館のキャラクター「ぱれたん」である。
ぱれたん
by 師
by S
うーん・・・・・・・・。
思うに、私の問題は、脳内の画像をそのままアウトプットするべきところ、無意識のうちに頭で考えた理屈を加えてしまうところではなかろうか。たとえば「ぱれたん」の頭の被り物を完全に失念したのは、片手に筆を持っていれば片手にはパレットを持っているはず、という「思い込み」のせいだ。また「すがもん」の着物の合わせを、和装は右前という「知識」で私は描いている。いっぽう、師は合わせを逆に描いたが、それは単に見たものを誤って再現したためだ。師が合わせを右前に描くとしたら、それは知識によってでなく、見たもののより正確な再現によってだろう。
より根本的な問題は、私が「画像を脳に焼き付ける」のでなく「印象を得る」程度にしか情報をインプットできていないことだ。高解像度でスキャンした画像を小さくリサイズすることはできても、低解像度でスキャンした画像を大きくしようとすれば偽情報を加えて補完せざるを得ない。再現したはずの絵がどれも「私独自のテイスト」なのはそのためだと思う。
うーん・・・・・・・・。
稽古を続けなさい、と師は仰った。もちろんそうするつもりだ。
観察する稽古
1月も早や半分過ぎてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。
前回の記事の最後に、自分は物事を「印象」で捉える傾向があると書いた。私はコミカルなイラストを描いてお金を頂いているが、思えば職業選択の妙というか、日々やっているのは印象やイメージを絵にすることである。たとえば次のようなフォルムを描いて、
1本の線を加えればりんごになるし、
点々を加えれば梨になる。
りんごは「色ムラ」、梨は「斑点」の印象をそれぞれデフォルメして「それっぽく見せる」わけだ。いわば記号化である。ものを見るときの私はたぶん、ほぼ無意識のうちにこの記号化を行っている。
師に教わって英BBCドラマ『シャーロック』を見続けているが、主人公ホームズが相棒ワトソンに向かって「君は見るだけで観察しない」とたびたび口にするのを天の声のように聞いている。「見て」印象は捉えても、「観察して」実際のありようを掴んだり、そこから何ごとかを類推するというのは不得手なのが私だ。それは武術的には「見ていない」のにひとしい。たとえば、技を間違えて再現するというのは「見ていれば」起こり得ないことだと師は仰る。
できないならできるように稽古したらどうなんですか、というわけで、観察する稽古を始めた。
CDジャケットを見る。
存分に見た感触を得たところでCDをしまい、頭の中にあるものを紙にアウトプットしてみる。
答え合わせして絶句した。ちょっとこれ、相当まずいかも・・。長年親しんだアルバムを選んだのに、全然再現できない。技もこんなふうにしか覚えられないんだとしたら、そりゃあ雑にきまってる。
そこでジャケットを模写することにした。ためつすがめつ、細部を観察する。
服のドレープ、光源、髪、星、こんなふうだったのかー。
それから再度ジャケットをしまい、改めて頭の中のものをアウトプットしてみた。
最初のと比べて雲泥の差である。ただ見るのと観察(模写、スキャン)するのとで、結果がこんなに違うなんて・・。「見るってことは、愛だなあ」と思った。
ホームズ「たとえば君は、玄関からこの部屋まであがってくる途中の階段は、ずいぶん見ているだろう?」
ワトソン「ずいぶん見ている」
ホームズ「どのくらい?」
ワトソン「何百回となくさ」
ホームズ「じゃきくが、段は何段あるね?」
ワトソン「何段? 知らないねえ」
ホームズ「そうだろうさ。心で見ないからだ。眼で見るだけなら、ずいぶん見ているんだがねえ。僕は十七段あると、ちゃんと知っている。それは僕がこの眼で見て、そして心で見ているからだ」(延原謙訳「シャーロック・ホームズの冒険」より)
よく見るというのは心がけでなく、おそらくは方法の問題なんだろう。稽古をしばらく続けてみる。