弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

組手メーター: 2|41|300

最近心に残ったこと。
子供組手の時間、師が皆を座らせて次のような話をしていた。「周りが目に入らなかったり、集中していないと、どんなに力や技があっても危機に気付かない。それは死にやすいってことだよ」。そして生徒に「君たち死にたくないでしょ?」と問いかけた。するとひとりの子がそれに対して「おれ時々死にたくなる」と答えた。小2の、ふざけてばかりいる子だ。そのとき話をしていたのもそもそも彼らの目に余るおふざけのためだったのだが、その子がそんなことをつぶやいたので、へぇ、と思っていると「死にたくなるけど・・あー、でも殺されるのはイヤだな」と続けて言った。

人の気持ちは生きると死ぬの間を時折揺れ動くが、誰かに殺されるのはいつでも避けたい。
生殺与奪権が他者の手に渡ることを人間は望まないようにできている。十歳に満たない子供でもそうなのだ。

そのあと師も仰っていたのだが、たとえば連続殺人犯が死刑になることを望んで事件を起こしたとしても、事件の現場で目の前の警官に殺されることはまず望まないだろう。

いつかは死ぬべき存在という本質的な不自由のもとにありながら、人は生殺与奪権を自分の手にしていたい。つまり選べる存在、自在でありたい。自由とは、選べるということだ。

武術の出発点とも言える言葉を口にしたにもかかわらず、その子の目は相変わらずタリラリラ〜ンと宙を泳いでいる。でもこういう言葉が時々聞けるのが、子供との稽古のおもしろいところ。

 

稽古メモ

昨日の稽古に師の知人と、その後輩の方が2人いらした。合気道・空手・柔道のそれぞれ上級者で、迎える側としても興味深い面々であった。
稽古を通して各々の動きや立居振る舞いの違いを知ることができたが、その「キャラ」がもともとの人柄なのか、修めている武術の特徴の表れなのかわからない。師に訊いたら両方でしょうと仰っていた。ならば私も「師の武術」を修めている人らしいキャラになりつつあるのだろう。

相手との接点(末端)を動かさずに体幹のほうを動かす、いわゆるエンドポイントコントロールの動作を、合気道の師範に「よく稽古してますね」と褒めていただき嬉しかった。努力が認められて喜ぶなんてわれながら小物だと思うけれど。。

反省と対策。

・双推手で力に押し切られまいと対抗して、相手にもたれるまずい形になる。鍔迫り合いの局面で「人」の形にならないよう、含胸抜背して腰を落とすこと。教室で単推手するときはできているんだから、私にはできるはずだ。

・体格で劣る相手との座捕りではとりわけ重心を低くしているが、それでももぐられて下からひっくり返されてしまう。亀のポジションで返されずに耐えることはそれなりにできるんだから、相手のタッチを読む解像度を上げて細かく対応していけば防げるはずだ。

・蹴りに対する間合いについて。最適な打点から外れた位置にいて、かつ、適切な受けをしていれば、却って蹴った相手のダメージになると教わる。
ミットで受ける機会を重ねて、正しい打点に差し出すことが少しずつできるようになってきた。正しい打点で受けられるということは、そこを外すこともできる道理だ。

稽古後は「私が強くなるなど到底無理」と落ち込み物質が脳から分泌されて泣きながら家路に着いたが、分泌がおさまると

「強くなることが無理かどうかはさておき、強くなろうとすることはできる。その姿勢をデフォルトとして生きることが、強くある、ということなのではなかろうか」

とおめでたい感じに気を取り直すのだった。
強くなろうというのも「ただそうなりたい」でなく、どんな強さを得ようとするかを、細かく、かつ大局的に考えていくこと。とにかく雑は悪だ。

稽古メモ

2|15|300

300本中15本の組手を終え、うち、Sのポイントは2本。

何を「1本」とカウントするかについて、先日説明を受けた。

1. 文句なしのクリティカルヒット(致命的な一撃)

武術において組手は「競技の練習試合」ではなく「殺法の模擬戦」なのだから、カウントの目安は当然これしかないと私は思っていた。命を取られたらおしまいなんだから、相手が私から1本をなかなか奪えず、疲れたからやめましょう、となれば上出来だと思ってやっている。

説明によると、師が1本にカウントするのはそれだけではないとのこと。他の要素として挙げられるのは、

2. 現時点でのその人のベストの一撃
3. ペナルティとして取られるもの
4. 礼にかなっているかどうか

等々。私が中段突きで師から取った2本は、隙のあった師ご自身のペナルティとしてのカウントだそうである。それなら納得だ。

組手の内容はもちろんだが、何をもって1本とカウントするかも、その人の武術(という思想)の表現といえよう。「何が命を失わせることになるか」。その認識が共有されていない人との間では、だから、組手で勝敗の認識が一致しないこともあると思われる(真に確かめようとすれば人死にが出るからです)。長く言われてきていることだが、ここでもやはり、大切なのは感受性と論理力と想像力なのである。

何はともあれ、思想の表現であるからには、私の場合は「太極拳を修めている人らしい」組手になっていなければ嘘だ。ということで、次回に向けて鋭意改良中。