弟子のSです

武術の稽古日誌

弟子と呼ばれし人々

古くはイエスに付き従ったペテロ、孔子の門人子路(しろ)、近代では夏目漱石と内田百閒、内村鑑三矢内原忠雄・・。師をとうとび敬う、という心情によって豊かに育まれた人たち。

師にあなたは弟子ですと言われた時、私はほんとうに嬉しかった。ペテロや矢内原につらなる幸福にくらくらしながら、弟子って何をしたらいいんですか?と尋ねると、師はさあ、なったことないからわかりません、と答えられたのだった。

何をしたらいいかは未だによくわからずにいるけれど、何をしたらいけないかは師からしょっちゅう指摘される。それは「自分を真似るな、追うな」ということ。格好を真似するだけでは技が技として使いものにならない、本質を見て、本質を理解しなさい、と。

師を真似ると手っ取り早く強くなった気がするのだ。イチローに憧れた子どもがバットを構えて右袖をつまむようなものだ。しかし。憧れの対象といえど別の属性を持った別の人間で、野球少年もいつかイチローからその子自身の打撃を見出さなければならない。簡単なことではないけれども、そう努めるなかで初めて、イチローが見るものを、その子も見ることができるだろう。

矢内原忠雄内村鑑三の命日に寄せた文章がある。

『先生は私たちに、「先生のまねをしてはいけません」といましめられたことがあります。私は先生のまねをしようと意識したことは一度もありません。かえって、外形的には先生から独立を保つことにつとめました。しかし今になって見ると、私の血肉の大部分を形成するものは、私でなくて、先生であるように感じられます』

本質を理解するとはこういうことかと、駆け出しの弟子はまぶしく思います。