組手について
無意識の部分はわからないけれど、極東に生まれたにもかかわらず、東洋思想というものにほとんど全く親しまずにきた私には、陰陽・虚実やら禅やらの考えを知った今年はほんとに面白い年だった。とはいえ、師が今ブログでシリーズで書かれている「五常の徳」について『仁・義・礼・智・信』と言われて思い起こすのは、未だに八犬伝くらいしかないのであった。なので今はピンと来るところだけ拾い読みです。強さについて書かれた「仁」の稿の内容を一部ご紹介しましょう。
弱さとは、死に近い要素であり、強さとは、死ににくくなる要素だと言えるのではないでしょうか。
武術をまず習いに来て、素朴に「強くなりたい」という人の考える強さ・弱さというのは、単純な腕っぷしですが、そうしたものはごく限られた局面での強さの末節でしかありません。生存をかけた全局面的な闘争では、もっと広範な強さが求められます。これが理解できないと、その人の性質がウサギ的なものであっても、ライオンと同じ土俵に乗って、同じ条件で勝とうと考えてしまいます。
武術は弱者のためのものですが、それは弱者が強者と同じ土俵で勝つということではありません。自分の土俵で勝負する。ライオンの爪や牙が意味をもたない局面を作り出す。腕相撲を挑んで手を出してきた相手にチョキを出して、ジャンケンで勝つ。そういうものです。
私はつい先日まで、武術と格闘技はどこが違うのか、逆立ちしたってリングで格闘家に勝てるわけないじゃん・・と泣いていた者です。強さとか、勝つとかが本当はどういうことなのか、よくわかっていません。どんどんわからなくなっている感じすらします。
私にとって、「強くなりたい」とは、端的には、師を相手にいい組手がしたい、それしかないのです。師の胸を借りて、昨日よりは今日、勝ちに近づく組手をしたい。師に勝つことが100年先までなくても。ひざを痛めて悲しいのは、組手のための、なけなしのパフォーマンスが落ちるからです。
同じ土俵で戦って強い弱いが決着する、そうした相対性から自由になるためには、いったんは相対性を突き詰めるしかない。師はそう仰いました。まだ突き詰める山に取り付いたばかりなのに、ケガなんかしてる場合じゃないのに。・・いけねえ、また愚痴だ。
師によれば、組手は、勝とうと思ってするものじゃないんだそうです。武術1年生の私には目からウロコな話です。今の自分を100%活かす、手持ちのカードで最善手を打つ、そう思って戦うものなんだって。
一番良いのは、「自分にはこういう弱点、欠点がある」というのを認めたうえで、それを組み入れた行動計画をする、ということです。太っているなら太っているなりの、力が無いなら力が無いなりの、体が固いなら固いなりの、その、今ある自分を最大限に使い切るような戦い方をする。そういう自分、そういう武術を構築する。それ以上でもそれ以下でもありません。
自分をわかれ、自我を確立しろ、ですよね。光明の差すような文言だけれども、さて、どこから手をつけたらいいのか・・。私の本当の弱点、本当の強みって、何なんだろう?
夜、長期欠席のご挨拶に小金井体育館の合気会へ行く。驚いたことに、代表師範が今月2日に亡くなられていた。先月末まで稽古をつけておられたのだ。77歳、多臓器不全だったとのこと。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。