ごめんね武術
武術の90分稽古を始めてから、今月6日で1年が経った。といっても稽古はいまお休み中。ひざを壊しちゃって走れもしないような事になってる、冴えないアニバーサリーだよ。
ケガ人としてのキャリアを2か月あまり積んでいくらか人間が練れてきたように思うが、やっぱり時々、武術に悪態をつきたくなることがある。それは一言でいうと
強くなるはずだったのに、弱くなってるじゃないか。
というもの。「強いって何?弱いって何?」と突っ込みを入れる武術的な自分もいるのですが。朝目覚めた時なんかがよくないですね。
師の「旦那102芸」にも以下のような記述があります。
日本人の殆どは、武術が無くても生きているし、むしろ、護身という観点でいえば、武術を習うことで怪我をする、といったマイナスの面さえあります。
それでも師は「手足をもがれても、武術は捨てない」。私の武術はときどき捨てられそうになる。今もかつてない危機に瀕しているところ。
それでここ数日来考えていることは、武術は私を守るものであると同時に、私に守られたがってもいるんじゃないかと。私が武術を守る、捨てずにいる。武術にどうにかしてもらおうとか思わない。ただそこにあるもの、私の中にあるものにする。
武術をやると、武術が身につく、という以上の意義は本来無かったはずなのです。
守るといっても意地や根性で、ではなくて
うまく言えないけど、武術が無いと困るんですよ!
という気持ちがあるかないかだと思います。
森を愛して初めて、森に愛される資格を得るという。