弟子のSです

武術の稽古日誌

暴力について3

人間には破壊欲求があり、暴力や攻撃性といったものは他人事ではなくて万人の心のうちにある、というところまで昨日は考えました。逆にいうと、残虐で非道な殺傷行為も同じ人間のしたこととして理解が可能ということでもある。

人を殺傷するのは「一線を越えた」行為であるとさきに書きましたが、一線とは何でしょうか。

破壊の欲求の持ち主である人間も、ことが人間同士となると話は別です。人間は社会的な動物だからです。「相手の身になる」という天の与えたもうた共感能力によって、人は人に暴力を行使するのを通常ためらう。私がされて痛いことは、あなたもされて痛いだろう。私の命が私にとってかけがえがないように、あなたの命はあなたにとってかけがえがないだろう。こうして、健康な心を与えられた人間は「人命には価値があるから侵してはならない」と人に教わらなくても知っています(理性というやつですね)。それが一線だと思います。

人間の理性は殺生を避ける。一線を越えるとものすごく後味が悪いことになる。理性は「後味センサー」と言えるかもしれません。

しかし現実の世の中には不幸にも後味センサーが壊れたり麻痺している(または麻痺させられた)人が多くいます。怨恨、抑圧、体制や組織のため、等々。後味センサーが壊れて振るう暴力は、強さというよりはむしろ弱さだと思います。だから本や映画のネタにもなるのでしょう。

さて、武術です。

私思うに、武術は後味センサーが機能していながら(=自己判断で)行使する暴力です。怒りや恨みや恐れで我を忘れてするものではないと思っています。覚醒していながら「私にとってかけがえがない私の命を守るために」通常は人に向かわない暴力を人に向ける。私にとってそうであると同様、その人にとって世界の主体であり価値そのものであるはずの相手を殺傷する。相手が先に仕掛けてきて、こちらは被害者だから後味悪くないよ、というものでもないように思います。法的にどうだかは知りませんが、勝つか負けるかという戦闘状態それ自体に加害者ー被害者の立場の違いはないからです。

戦いにおいて一線を越える、その後味の悪さに耐える覚悟があるか。武術を人に対して実際に行使する、というのは大変なことです。

もとより殺されてしまったら元も子もないけれど、人を殺傷するということはその結果を一生背負うもの。ならば武術は、単なる護身から、徒手でも武器でも、やりすぎない。可能ならばやらずにすませる。そうした方向に向かって鍛錬されるべきだ。

「常在お花畑」の私が暴力から目をそらさず考えて辿り着いた、さあ、これが自分の求める武術です。一昨年、武術の稽古を始めようかという時に師に言われたこととなんと重なるではないか。

最終的には武術は命のやり取りになるものですが、それ以前の段階で物事を納めるためにも強さがあった方が良いのだと思います。強い人は手加減が出来ますが、弱い人ほどやりすぎてしまうので。

阿呆な私はその時「とりあえずやりすぎ目指してがんばります!」なんて答えたけど、その後の稽古で未熟さが自分も相手も傷つけると知り、今では「弱い人ほどやりすぎてしまう」がよくわかる。暴力を学ぶことを通じて、暴力を越え、暴力をコントロールすること。

頭で結論付けたからといってすぐさま意識が「常在お花畑」から「常在戦場」にシフトできる訳もないんですが、矛盾について内省し葛藤することは苦しくとも大切なことだと思っています。ご清聴ありがとうございました。おわり