弟子のSです

武術の稽古日誌

学食で考え事

受験生の次女と共に大学のオープンキャンパスへ行く。若者はかわいいな。

待ち時間には持参の『拳児』を読む。読み返して新たな発見がいっぱいだ。拳児の抱く疑問に「そりゃーもっともな考えだ。私もそれが気になってた」とうなずく、ここは学食。

気になるといえば、最近集中して考えた「暴力」について、師の考察がブログに載っている。

師によれば、暴力は次の三つの種類に分けられるとのこと。

1 単純な破壊力としての暴力 2 他者を支配するための暴力 3 自己主張のための暴力

でもって、武術の目指すものは、限りなく1の純粋な暴力に近い存在になることだという。また、

「暴力に対するカウンターとしての暴力。これが武術の一側面であることは確かです」。一側面。武術即暴力とは師は考えておられない。

かかりつけの小児科医に以前こんなふうに言われたことがある。

「薬には作用(ファンクション)しかありません。人間の都合でそれを効用と副作用に分けているだけです」。たとえば風邪薬と精神安定剤には、不安や緊張を和らげる作用をする同一の成分が使われている。精神安定剤にはそれが効用としてはたらくけれど、眠くなっては都合の悪い人が風邪薬を飲むとき、その作用はしばしば副作用(眠くなる)と呼ばれる。

武術もただ武術としてそこにある。師が何かの折に次のように言っておられた。

武術自体は純粋な理、手段、法則であって、それを体現することや、その一部になることを目指している以上、自分という存在はどこまでも純化していくだけである。

純化の過程で、暴力という側面とは別の、武術の与える恩恵という側面が現れる。師が「武術によって救われた」という思いは修行の至らない私でも抱いているもので、それなしでは続けてこられなかったし、これからもそうだろう。趣味で青タンをこしらえている訳ではないのだ。

考察の中に《武術が目指すもの》という項がある。私は暴力についての記事の中で「私の求める武術」うんぬんと書いたけれども、「武術が目指すもの」という表現の中には「私」「自分」「我」そういったものが見当たらない。私の物言いの自分視点であるのに対し、師のはあくまでも武術視点だ。

自分が求めるというより、武術が求める。武術の求めるものに自分を沿わせること。どこか、自分のことはどうでもいいという態度で臨まないと、武術になること・武術の恩恵に授かることはかなわないように思う。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと言います。

「生きていく中で誰かを支配しようとも、認められたいとも思わず、ただ自分は自分として何のコンプレックスもなく心穏やかに生きていける」。さういふものに、わたしはなりたい。

とってつけたようだけれども、それが娘らのためにもなると信じている。