弟子のSです

武術の稽古日誌

岸田先生、御歳80歳

お勤めの方でしたら上司やら取引先の理不尽な扱いに耐えることを知っておられるのでしょうが、私は世間知らずで理不尽さに滅法弱いのです。自分で種を蒔いたとか、納得ずくの苦労なら結構耐えられる自信があるのですが、理不尽なことには感情が翻弄されてすぐに萎れてしまいます。 「何で私がこんな目に・・」の代表、イエス・キリストの例を引くまでもなく、世界は理不尽に満ちている。そういうものだ。面白くはないけど仕方のないことなのだ。まあ大概そうやって自分をなだめ、やりすごしてきた訳ですけれども いま思うのは、理不尽と思うものの全部が全部そうとも限らないのではないか、ということです。 理不尽とはあくまでも「現在の自分の理解の範囲内での」理不尽であって、理解が進めば本当は理不尽でも何でもないものも混ざっているのではないかと。つまり、今の自分の判断を全てとするのは誤りだということです。自分は変わっていくからです。世界は理不尽に満ちている、と決めてしまえばどこかで楽にはなるけど、それは理について考えることを放棄することでもあると思う。 キリスト教徒によれば、キリスト教は愛の宗教であるといいます。どう思われますか?) こういうことは、本人の自称とか主観とかではなく、客観的事実で判断すべきです。これまでの歴史において、キリスト教徒がどれほど人々を虐待したか、虐殺したか、どれほど人々の福祉に貢献したかということです。現在、世界の各地にキリスト教の教会などがあって、修道女などが懸命に福祉事業をしておりますが、歴史的には、やはり虐殺のほうがはるかに多いと言わざるを得ません。キリスト教を愛の宗教というのは無理ではないでしょうか。 これは、彼らの主観の問題ではなく、現実に彼らが人類に対して何をしたかということですから。(岸田秀一神教vs多神教』) 太字に類することは今まで師と何度も話してきて、わからなくて棚上げにしていてほとんど理解を諦めかけた所でもあります。あなたの考え方は一神教的だとはっきり指摘されたこともありました。この本で少し理解の糸口が掴めたような・・・。掴めたからって、これから考えることやすることの広大さと厄介さを思うと・・・あー武術。面倒なこと始めちゃったなと思います。 「キリストにせよアシジのフランチェスコにせよ、キリスト教の一番良いところというのは、極端さと情熱と聖なる狂気の部分で・・・その非常に暑苦しい力技こそが人の心を打ってきたのだと思います」「キリスト者の心は『言ってることは無茶苦茶だけど、この人を信じてみたい』という心であり、合理的であるかどうか、実際に神がいて天国や地獄があるか、といったことは案外どうでもいいこと、むしろ損得勘定の打算でしかありません」 これは師が(私が全然よく思っていない)知恵袋に寄せた回答ですが、こういったものを読みますと、そうそうそう・・師はわかってるなぁ!と嬉しくなります。 世界は理不尽に満ちているけれども、私が思うほどではないのかもしれない。