弟子のSです

武術の稽古日誌

ぐるぐるぐるぐる2

「どこかにあるはずなんですよ、探してる線が」

ドキュメンタリー番組で宮崎駿はこう言いながら何本も線を引いては消し、引いては消しして絵を描いていた。それはまさに職業絵描きである私の実感だった。

ミッフィーちゃんで有名なディック・ブルーナもぶるぶる震えながら線画を描く(ご高齢であるので)。それがグラフィックソフトで描いたような精緻でシンプルな線のミッフィーちゃんになる。

どれも求める線を「私」が「見出す」からできる仕事である。高齢になっても、見出せる「私」(それをセンスと言うのだろう)がしっかりしていればよい仕事ができる。若い頃は一発で辿り着けた「求める線」までに、何十本何百本と引かなければならなくなったとしても。そのことは私をどれだけ勇気づけただろう。

「私」が「見出す」。大切なのは「私」。

・・と、ここまでは前置きです。

『弓と禅』のヘリゲルさんも、矢を的中させるについてそのノリで考えた。思弁した。「私」が「射当てる」。高められ洗練された何らかの方法をもって。でもって師に否定される。

・・そこである日私は師範に尋ねた、「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし「私」がしなければ」と。

「「それ」が射るのです」と彼は答えた。

・・例えば的と矢先との間にはある関係があり、したがって的中を可能にする試験済みの照準というものが在るに違いないと私は推測したのである。

「もちろんそれはあります」師範は答えた。「そしてあなたは必要な狙いどころをたやすく御自分で見付けることができます。しかしそうやってあなたのほとんどすべての射が的にあたるならば、あなたは自分を見世物にしてもよいという曲芸射手に外ならぬのです。自分の中りを数える功名心の強い人にほ、的は彼がずだずたに穴をあける一片の反古紙にすぎないのです。弓道の"奥義"はこれを全くの邪道と考えます。奥義は射手から一定の距離をとって立てられている的のことは関知しません。そればただ、技術的にはどんな仕方でも狙われない目標のことを知るのみです。そしてこの目標は、そもそもこれを名付けるとすれば、仏陀といわれるのです。」あたかも分りきったことであるかのような口吻でこういってから、師範は我々に、射る時の彼の眼をよく見ているようにいいつけた。その眼は礼法を行ずる際のようにほとんど閉じられていた。それで我々は師範が狙い定めるような印象を受けとることができなかったのである。

最後の二文は組手のときの師を思い起こさせます。組手での師は、視線の先に何もないような目をしておられる。私の組手はどうか。「私」という存在があれこれ考えながら「相手を打つ」という動作をする。しようとする。師からのメール:

そうした構造から生まれる運動では実際の攻防には間に合いません。

私という存在、自我の主体が意識だと思っている人は、脳を通じて右手に打ちなさいと指令を出し、それで打つという動作を行います。が、常々言っていますが、武術をやるというのは武術そのものになるということです。なので、「私=打つ」であり、私という存在、主格と、打つという行為、動詞が同じ意味になることが求められます。

食い下がるヘリゲルさんに師範は答えた「もうその話はやめて、稽古しましょう」。