弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

頭でする決心など何にもならないとつくづく思い、「ただやる」をよい監督者・伴走者のもとで行いたいと、そればかり。その伴走役を師にお願いするのはいくらなんでもなぁ、と思っていたのが「補習」という形でなら付き合ってくださるとのことで、久しぶりのスポセン。

稽古に集中し、熱中しない。熱中は必ずブレーキになる。稽古に集中し、熱中しない。マントラを唱えつつ向かった。師は来て下さった。

先月30日に教わった内容から。刀を持つ手首を関節とみなして左右、上下に振る(ここ宿題)。二刀で振る。太極拳套路を二刀でもって行う。対向してしのぎを合わせ、正中線を取り合う。座取り。それから套路の第一段を鬆・活・弾・抖を確認しながらやった。最後に組手。

私はうまくできた。集中し、熱中しなかった。少なくとも目的意識に憑かれたような組手はしなかった。師にもいい稽古だったと言われた。この穏やかなイメージを記憶・定着させれば無闇に驚いたり落ち込んだりしなくなるという。

稽古中のことをいくつか。

対向して正中線を奪うことができるのはごく具体的なテクニックの所産である、という実例を今日の「しのぎを削る」稽古で見せてもらった。

それは、刀どうしがぶつかる接触点の、移ろう全ての瞬間において正中を保つ、その繰り返しだということだ。大雑把にせず、ハイスピードカメラで連写するようにコマ数を増やしていく、その一枚一枚それぞれが異なる方向と量とで相手の力とバランスしているように。太極拳のゆったり動く套路も、そうしたことを意識させる装置なのだと思う。

套路では不思議なことがあった。ひじの内側に反対側の手をあてがい肩から体当たりする「靠」の型をみてもらっている時、二の腕に力みがあって硬いと師がそこに手を触れた。すると、しこりが溶けるように私の皮膚の内側が柔らいだ。自分の中で起きた事で、何も言わなかったがそれが師にもわかった。師がわかったということが私にわかった。

昨夜から表現に腐心しているのだが、どう書いても何となくオカルトな、あるいはエッチな感じになってしまうのをどうしよう、もうこれでいいや。よくわからないけど普通のこととして感じられたのが不思議だったのです。

『クヌルプ』の読後感から「野垂れ死に」について話しながら帰る。

ふたりは、神さまとクヌルプは、互いに話しあった。・・・なぜあれやこれやがああなるよりほかなく、なぜ別なようにならなかったかということについて。