弟子のSです

武術の稽古日誌

ひいこら生きる女性のために

このブログを読みに来てくださる方は日々約40人。そのうちの半分が女性として、今日は女性向けに書きます。

私の家の周辺にはお年寄りの独り住まいが多く、その全員が女性です。彼女たちの暮らしぶりや亡くなり方を観察しているととても勉強になります。耳が遠かったり人と疎遠だったりしながら、寿命を全うするべくどの人も健気に頑張っている。独居老人の晩年には凄味があります。亡くなった人はどの人も孤独の中で死んでいきました。それを哀れむ人もいるけど、私は見事だなあと思う。私は実母76歳と同居しているのですが、先日は母のところへ同年代の知人から「さみしくて眠れない」と電話があったそうな。ああ、歳とるって大変。

先日の師との対話でも出ましたが、一昔前なら多くの女は出産して子育てを終えたら適当なところで寿命を終えていたもの。私のような「オーバーフィフティ」の女というのは近現代の新種です。生物学的な存在理由がいまいち希薄なところへ、やみくもに長い余生を与えられている。

「美しいものを美しいと思える、あなたの心が美しい」と相田みつを先生も申しておりますが、この世界は、個々人が知覚した通りにあります。認識がすなわち世界である。私の稽古する武術では、その知覚の幅・認識の領域を広げていこうとします。「いいことなんて何もない」「この世はろくな場所ではない」・・認識が幸福なものでないならば、認識外のものを知ることはその人にとって死活的に重要な意味を持ちます。よしとする人の目には、世界はよいものだからです。

こう書いている私自身、中年女なんてのは煮ても焼いても喰えねぇな、と日々肌身で感じておりまして、そんな私の目に映る世界も推して知るべしなのですが、その一方で「いやこんなはずはない。こんなんであってたまるか」とも思っている。見えているものがすべてだと思うな。見えていないものを見ようとしろ、と耳タコで聞かされているからです。

人間は自覚している部分は氷山の頭の部分で水面下の部分の方が大きい、むしろまだ見えてない可能性の部分こそが本体である。

いいことなんて何もない、ろくでもないこの世で歯を食いしばって生を全うする、というのも神々しいけれど、その認識自体を変えていこう、広げようとして武術をやってます。新たな目を獲得することで世界は「そんなに頑張らなくてもいいもの」になるかもしれません。いずれにせよ何かと戦うことには変わりないのですが・・私は満身創痍の戦士より、道端の花になりたい。

オーバーフィフティよ連帯しよう、とかいうのでなくて、各個人がそれぞれの場所でそれぞれのキャラに従って、どれだけ長く生きても、あるいは短命であっても、笑顔で生きられたらいいと思う。武術を身につけることはそのための有効な手だてになるはずです。笑顔の民が増えるというのが、大げさに言えば国益ってことにもつながるんじゃないかと。わかんないけど。