弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ、のようなもの

ブログの更新頻度が落ちていて、かつ個々の記事が長くなっているのは、言葉で説明しにくいこと、言葉にすると誤解されがちなことを理解することが多くなっているのが一因だと思う・・。それと、書く以外のことをしている時間が多くなった。といっても武術に関することしかしてないような気もする。仕事中や子供といるときは別かもしれないけれど。武術に関していないことってこの世にあるんだろうか。というか「武術」って何なんだろうか。

稽古や、師との対話や、課題を通し「ああ、王様は裸だったんだな」みたいなことに気づく。しかし同じ裸の王様を見るのでも、師と私とでは見え方がだいぶ違っているようだ。師のする刷り込みの解体(「デプログラミング」)は徹底していて、まだまだ私は王様に服を着せているのだろう。一つわかるとその先のわからないことを提示される。「脱がし方が足りない、まだ脱がせられる、もっと脱がせられる」と説かれているようだ。一体師にはどういう世界が見えているのだろう。

実技面では最近テレビで見た「ホテルに侵入した覆面男ともみ合いになった夜勤の女性が、覆面を剥がし取ったことで男の身元が割れて逮捕に至った」というニュースにいたく打たれた。「人を物理的に倒す・倒せない」にこだわる自分だが、武術はそこじゃないんだと言われた気がして。

色々わからないし、わからない私の書く文章もたぶんわからないでしょう・・・。

Go and Fence!

師がブログで感想を書かれていた『こころに剣士を』、1月の末に観てきた。映画を観るためというよりは、師の感想文を理解するために行ったという方が正しいけれど。

行く前に英語タイトル(『The Fencer』)を師から聞き、フェンシング(fencing)という競技名が「fence(柵→守る)」に由来することを知って目がひらかれた。そうして観たら、劇中でも主人公の体育教師が「フェンシングは突いたり打ったりが主体の競技だと思われているがそれはちがう。大切なのは精確な間合いのセンスだ。」と生徒に言っている。フェンシングってああ見えて「守る」競技だったんだ!

トーリーは秘密警察に追われる主人公が田舎町で子供にフェンシングを教えるというもので、師の文章を丸写しすれば、「最初はなし崩し的に始めた指導であるが、子供たちの熱意に打たれ主人公はフェンシングを教えることに情熱を燃やすようになる。そして、見つかれば強制収容所送りになる危険を冒し、レニングラードでの公式大会に子供たちを連れて行く。子供たちとの約束のために。」なのだが、大会行きをやめてと懇願する恋人に、彼が

I feel as if I've been running all my life...And I'm tired of it.「ずっと逃げ回ってきた気がする・・もう逃げたくないんだ」 ※オリジナルは英語ではありません

という台詞があって、ここから「fencer=守る人」であるとはどういうことかが推し量られる。「守る」には受け身なニュアンスが伴うけれど、それは「逃げる」ではないこと。むしろ逃げないためにfenceが要るのだということ。

で、主人公は秘密警察の待つレニングラードに向かうのだが、私思うに彼がそうしたのは、剣士たるものそうすべきという大義(騎士道精神というんですか)に従ってというよりは、もっとシンプルに、身を危険に曝しても生徒を大会に連れてってやりたいという愛情が勝ったからじゃないのかな、ということである。

赴任した当初、同僚(のちの恋人)に「ほんと言うと子供は苦手なんだ」と主人公に打ち明けさせてから、感性豊かな生徒とのやりとりを通して、教え教わる者が慕いあっていく様子が沁み入るように描かれる。ようは「そうするだけ子供たちが好きになっちゃった」んだと私は思う。

「フェンサーであること」はこのとき彼を外側から律するものというよりは内なるバックボーンだ。「もう逃げるのも嫌になっちゃったし(I'm tired of it)」という。フェンサーだから。

たとえば、餓死刑の囚人の身代わりになったあのコルベ神父も、「彼でなく私が」と言ったそのとき、行為の価値ということを考えてしたというより、自然な情動からだったと私は考えている。価値とはただ後の人が与えた称号であって、むしろそうした「大きなもののためにやってない」点にこそ、神父である(神父としての、でなく)彼の行為の本質的意義があると思われる。そして私がこう考えるようになったのは、ひとえに、価値は幻想であるという武術の教えに触れたからだ。

映画を見終えて師の感想文を読み、いかにも「金剛界」に身を置く師らしいなあ、と思った。

金剛界」「胎蔵界」とは密教の言葉で、この二つが世界を作っているとする。金剛界は理であり剛であり、客観性が支配し、智慧をもって「裁く」いわゆる父性原理の世界だ。対する胎蔵界は情であり柔、主観が支配的で、共感・慈悲をもって「ゆるす」母性原理の世界。師の記事に詳しいが、ここで師は次のように書かれている。

武術はどちらの世界のものか、というと、基本的には理の世界のものです。・・・客観のある人間は主観も持ち得ますが、主観しかない人には客観という概念はもてません。

武術家としての師から「胎蔵界のドロドロを持ち込むな」と戒められてきたのもこの故である。

実際の人間は太極図のように異なる要素が渾然一体となった存在なので、たとえば男だから金剛界、女だから胎蔵界と単純に二分することはできない。ひとりの人の中に金剛界胎蔵界とが共存する。私は個人としての師にしばしば胎蔵界の要素を見出すし、私自身の中に金剛界を見出しもする(ウソだという人もいるでしょうが、だから武術がやれているのです)。

で、私のこの感想文は『The Fencer』を「胎蔵界」サイドから見たとき、ということで読んでいただければよいと思う。

この映画、師は「武術指導者として多くの場面で感情移入していた」とのことだが、私はもっぱら生徒として感情移入して見た。聡明で感受性の鋭い教え子のヤーン(美形)が試合で、先生の姿が見えてから俄然動きが良くなるところとか、補欠のマルタが先生と目と目で会話するところとか・・。(ちなみに表題の 'Go and Fence!' は急遽試合に出ることになったマルタを主人公が鼓舞する台詞です。)

あとで師に「先生との立場の違いを感じました」と話すと「あなたは生徒じゃないでしょ」と言われ、武術家ならば受身でなくそれを伝える側に立っているはずだ、みたいな話になり、そのことについての対話は今も継続している。それは稿を改めて。

それにしても、稽古でいま前腕や短棒でもって身をよけつつ攻めるというのをやっているけど、フェンシングではあんな細身の剣一本でフェンスするって、何だかすごいなあ。

稽古メモ

3週間ほど更新しなかった。何をしていたかというと、めずらしく働いていたのだ。私は翻訳会社に外注スタッフとして登録しているのだが、時おり私の手に余るようなチャレンジングな仕事がくる。今回もそんな作業と格闘していた。無理かと思われる仕事も、終わってみればいつも何とかなっている。

稽古の方もこの間に一つ進展があった。

子供空手の稽古に参加しはじめて3、4年経つだろうか。この教室は中野に本部を置く「護身空手・木村塾」の指導員として師が教えているものだ。いくつかの型稽古があるのだが、入門した最初に習う短いものを除き、私はそれらの型がさっぱり覚えられずにいた。短いものも、師がするように技名をコールしながら動くことができない。生徒にも保護者さんにも師のアシスタントとして映るだろう私が、そんな状態で道場にいるのは身の置き所がないようなことだった。

師に動画を撮らせていただき、瀬尾さんにも何度も説明してもらい、道場で繰り返しノートを取った。それでも覚えられないことから、金曜の空手がつらくなっていた。無能でぶざまなアシスタントだ。套路もナイハンチも短期間で覚えられた経験があったから、これは型との相性が悪いのだと半分思いかけていた。言葉を換えれば、覚えられない自分を許しかけていた。

そして先日、師に「子供でも週1回の稽古でいいかげん覚えるものを、これだけ長年やっていて覚えられないのはもう自分で訳がわかりません」と話した。「どうしても覚えなければダメですか」。太極拳套路の順序を覚えさせることにさほどこだわらない師だからである。

師は、覚えることの要不要より「覚えられないこと」が問題だと仰った。「方法が間違っている」。それは次のツイートのような話だったが、すぐには理解できなかった。

 画像をプリントし、その画像をスキャンしてまたプリントする、というようなことをしているとどんどん劣化していく。型や技をノートにとって覚えようとする人もその傾向にあり、すでに技を練習するのではなく「技を言語化したものを復元する」という、ややこしいことをしている。

 そうなるとディティールが全部すっとんだり左右が逆になるなど、言語化しそこなった部分がごっそり失われたまがい物にしかならない。そもそも対象と自己を同一化しなくてはならないのに、言語化するという翻訳をひとつ入れるというのは、より技を自分から異物化してしまっている。

 技をノートに取るということが有効なのはニュアンスや感覚に対する口伝やイラストで書き写すことで、それでさえ三次元の現象を二次元に落とし込むのだから劣化は免れない。名演奏を再現できるのは耳コピからであって譜面だけでは不可能なのと同じだろう。

そのとき言われたことは、あと

・稽古を苦行と感じるなら、どうすればそれを遊行にできるか考えること。

・出来損ないのアシスタントとしてでなく、弟子として稽古に参加すること。

すんすんと泣きを入れながら家に帰って、考えた。

太極拳教室で、套路を覚えるべきか否かという話が時々出るが、そのたび私は(迷ってるヒマがあったら覚えちゃえばいいじゃん)と思っていた。考えてみればそれは、自分が難なく覚えられたから言えたのだ。私はいま、空手の型は覚えなくて良いと思おうとしているが、覚えられないからと自分にそれを許すのはダブルスタンダードではないか。そう思いついたら覚えない訳にいかなくなった。

そして、套路やナイハンチを覚えたときの「動画を集中して見てビジュアルで記憶する」をまだやっていないことに気がついた。覚えようとする型は長く、動作がいくつもあるので、以前撮らせていただいた師の正面からのアングルの動画をビデオ編集アプリで反転し、動作のまとまりごとにカットして、それぞれスロー再生できるようにした。それをパソコンで再生してパソコンの前でミラーリングするという方法をとった。

体を動かしながら再生と一時停止を繰り返すうち、見分けのつかなかった動作が、意味のあるまとまりごとに一つずつ頭に入るようになってきた。この作業に、なるほど言葉は介在していない。そしてうっすら法則性が見えてきたりすると、わかることが楽しくなり、冒頭に書いた英語の仕事の合間に、動画を見て覚えることが息抜きにすらなるのだった。最後まで覚え切ったときは思わずロッキーのポーズをやっていた。できた。覚えられた。型稽古の準備をやっと整えたに過ぎないけれど・・。

ツイッター快哉を叫んだら、師から即リプライが届いた。

「真面目にやれば三日で覚えられる形を何年やっても覚えられないと言い張っていた」が正解です。

子供空手の型が覚えられないのはそのボリュームのせいだと思っていたが、できてみれば、「記憶する」とは脳のHDDの容量を食うことではなく、回路を作ることだった。

「私にはできない」「今度こそできない」「今度という今度はできない」・・難題に接するたびに思うけれど、「できない」とは「正しいやり方が見えていない」「問題と正しく向き合っていない」ことと同義なのかもしれない。道はいつも師の一言がきっかけで見えてくる。今回のそれは「出来損ないのアシスタントとしてでなく、弟子として振る舞え」だった。

アシスタントとしてなんとか格好をつけようとか、頼まれてもいないのに何考えてたんだろう。そんなの自分を含めて誰のためにもならないし、なにより武術の(ということは師の)求めに応じているとは到底思えない。それなのに聞いたときはギョッとして「今何て仰いました?」と訊き返すほどだった。事ほどさように「真面目」でないことは自覚しにくい。つらいというのは自分が何かを適切にやれていないこと、真面目にやってないことのサインだ。