弟子のSです

武術の稽古日誌

わからないこと

武術の命題は絶対的な自由の獲得ともいえる。それは「殺されるのに比べれば従った方がまし」「やりたいことはできないけど給料はいいから続ける」の類ではない。なので人間をこうした二択形式の対立構造から解放する必要がある。なので雨は降っているし、同時に降っていないといった量子力学的な立場をとるようになるのだろう。

いつかの座学で、師は「人は外的要因によって行動を支配されていて、この世に自由な人間は一人もいない」と仰り、その例として ・トイレに行かざるを得ない ・お腹がすいて食事を調達せざるを得ない・・など挙げられた。私は次のように質問した。

“「トイレに行かねばならない」でなく、逆に「トイレに行ってはならない」と支配される方がよほど自由の制限じゃないですか? それに、世の中には喜ばしくない理由で「トイレに行く必要がない」人だっています。便秘とか代謝の悪い病気とか・・。行きたくても行けないことと比べれば、「トイレに行かざるを得ない」って不自由にカウントすべきことなんでしょうか?”

私の念頭にはゲーテの「涙と共にパンを食べた者でなければ・・」があった。つらいのに腹がすく、というのは人間の哀しさであると同時に明るさ・希望・救いだと思う。否応なしに生へと向かわされる生体としての自然、その「支配」は喜びこそすれ、そこから自由になろうとするようなことだろうか。

質問に対する答えはこうだった。

「絶対的な自由とは、トイレに行くことも行かないことも、食べることも食べないこともできるということです。自由であるとは、これとあれとどっちが、と比べられるようなものではありません」。

師はさらに続けて「この世に自由な人間は一人もいない。しかし完全に自由な人間になることはできる」。そのときファミレスかどこかで話していたのだったが「今トイレに行かないということは、永遠に行かないということ」と仰った。まるで謎かけである。わからない。

しかし、稽古で「遊び」の状態をつくったとき、うまく遊ばせられた短棒は動いていて、同時に動いていなかった。重力の支配下にありながら重力から自由だった。そのことは、人間がやりようで「支配されることも、されないこともできる」ことを示しているのかもしれない。

師によれば、「わかる・わからない」というのが既に「わかる此岸の私」と「わかられる彼岸の対象物」という断絶だと仰るのである。「わからない(だから、わかりたい!)」というのが武術する私の基本姿勢だが、師の教えはそもそも「彼我の間に断絶はない」。なので「わからない」という問いは本来起こり得ないのだという。「断絶しているうちはあなたの技はかかりません」。

支配−被支配を含めた、あらゆる対立構造・断絶から解放され得るということ。いつか、問う必要のなくなる日。

切磋琢磨を以て相叶う

昔でいう武州に遊びに行ってきたが、ひたすらぐうたら・ぼんやりしていても、ふと見た額に兵法目録の伝授文句が掲げられていたりして、縁あるものは目が探し出すものだと思う。 soro.jpg これは師弟間で授受される免状の定型文らしく、坂本龍馬が貰い受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」にほぼ同一の文があった。「(貴殿)一刀流の兵法の稽古に執心し、其の上勝利の働き之あるに依りて家流始めの書であるこの一巻を差進め候。なお師伝を疑わず、切磋琢磨を以て必勝の實、相叶うこと有るべく候。よって件の如し」。山奥の宿にこんな額がかけられているところをみると、武州はもともと剣術の盛んな土地柄なのかもしれない。 そして師のブログを見れば剣術の型稽古指南が載っているのだった。おぉシンクロニシティ。 私は短棒(小太刀)対長剣の型稽古がたいへんに苦手である。長剣対長剣も同様だが、対向した相手と武器を介してやりとりする、ということができない。これは長剣の心得のある方が師と型稽古をしていて、二人の間に切っ先を介した対話が成り立っているのを見て自分の圧倒的な未熟を悟った。師の解説にもあったが、これはロールプレイ、物語なのだ。 私はかねがね短棒術を面白いと思ってきたけれど、そこに物語的要素はまるでなかった。自分をかえりみるに『2001年宇宙の旅』で武器を手に入れて快哉を叫ぶ猿とあまり変わらない感じである。一人称と二人称の違い。私の武術的課題はもしかすると一事が万事、これに尽きるかもしれない・・・・・。

稽古メモ

村山聖ではないけれど、「師匠は一生独身だと固く信じていました」。でも、師ほど家族を欲しがっていた人もいないようにも思う。先生、waiさん、おめでとうございます。

3月吉日、結婚祝いを兼ねた特別稽古には白桃会の前身であるドラネコ商会の面々もいらしていて、あいかわらずの、愛があったりなかったりするコメントが私としては大変たのしく、嬉しく、ためになった。このブログがまるで禅問答だという指摘をうけ、素直にどうしたもんかと思う。修行がそもそも禅問答のようなものだしなぁ・・。

このごろの稽古内容。

・「無足」「浮身」:位置を変えずにその場で寝返りを打つ、前転する、足を入れ替える。

・「エンドポイントコントロール」:動作に不動点(エンドポイント)をつくる。受けや払いは手を不動点として全身を連動させる。

・「胴の蛇腹の開閉による動き」:吸気で蛇腹を張り、呼気で縮む・抜くことによって「ふいご」のように発勁する。

・「スクワットせずにしゃがむ→立つ」:左右の足にそれぞれ虚と実の役を割り当てる。

・「陰の力」:足で床を「蹴る」かわりに、進みたいほうの足の力を「抜いて」方向性を作る。

ほか、短棒術など。当然のことながらどの稽古も別個のものでなく連関している。

身に付けようとするのはもっぱら身体の使い方・動き方のコツ(と、それらの元になる考え方)だ。技はそこから派生する。技名があれば説明の便がよいのだが、あいにく師の教える技には名前がない。動けばそれが技になると仰る。だから私は自分が身につけている技が(それがあるとすればの話だが)何なのかわからない。

何かができたとしたらそれは武術が(師が)していることで、何かができないとしたら癖や思い込みといった、私の中の何かが妨げているのだと思う。なので対人稽古でうまいこと発勁できたときなど、自分がしたことなのに他人事のように「すごいですよねぇ・・」と感心してしまう。聞いた人はおかしなことを言うとお思いでしょうが、すごいの主語は私ではないのだ。

読む人に「そうか、この人が武術に打ち込むのもわかるわかる!」と伝わるように書きたいのだけれど、今のところ全然うまくいってないのが心苦しいです。