弟子のSです

武術の稽古日誌

昨今の状況を整理すると

1. まず、以下のような私の思惑があった。

・週の前半、日〜火のいずれかにレギュラーの昼稽古がしたい

・その時間に師と稽古できないのは私が研究的な態度で臨めないからなので、そうした態度そのものを身につける、稽古のための稽古が必要と思う

・修める武術は違っても志を同じくする人と場所と時間を共にしながら、淡々と延々と基礎鍛錬ができる環境があればいいのかも。その場合、老親と共に暮らす身でもあり、近場であればなお望ましい。

2. 目が慣れてみると、私の住む小平市という町は意外と武術が盛んな土地柄かもしれず、大東流合気柔術の故佐川幸義師範の道場があったり、古くからの武道館があったりするのだった。武道館で活動する一つの中国武術サークルがネットで紹介されていた。「内家拳を中心に様々な門派の練習者が集い、独自の練功をしています」というので見学してみると、老翁率いる(というか見守る)梁山泊な感じの好ましい場である。基本功を体験させていただき、よい刺激をいただいた。このへんのことは日曜日の記事に書いたとおり。ここの稽古に混ぜてもらおうかな。

3. 問題は、そこで教える太極拳の流派が陳式であること。陳式太極拳と、私の師の武術のオリジンの一つである鄭子太極拳とは技に対する考え方の対照的な流派なのだそうだ。それも微妙に、ではなく全く違うものである。当然のことながら、先方の老師も、私の師も、違う流派の太極拳を同時に稽古するのは勧められないと仰る。そうである以上、そのサークルに参加するためには、どちらかに事情を鑑みていただくしかない。

4. そこで私は過去の失敗を振り返り、教わる間は先方に失礼のないように、その場で教わる武術の色に染まろうと考えた。交流会もそういう態度で臨んでいるし、そのサークルに集う様々な経歴の人も皆そうしているはずだ。何よりそれが、これから長く師(佐山先生)のもとで学ぶため、自分の武術のためにプラスの経験になると思った。思えばここが判断を誤ったところ。

5. それで、師による金曜日の(鄭子)太極拳教室をいっとき休んで陳式を学ぶというのはどうか、と師に提案したのだ。・・そして、師にひどく叱られることになった。修行を打ち切って別のことをやろうとするのか、あれほど卒業することを急ぐな、目的意識を持つなと言ったのに、まだわからないのか。なぜいつも想像を上回る愚かなことを言うのか。

私のした提案はたいへん不遜なもので、修行を打ち切ると言ったも同然だと仰る。だからと言って師の武術を中心に据えたまま先方に教わろうというのは、今度は先方に対して不遜なことをすることになると。つまり、そういうことを考える私という人間がどうしようもないトンチキでスットコドッコイの唐変木だ(意訳)と仰るのである。

6. 「月曜の昼稽古はなくなっていない。Sさんが研究的な態度で臨むならいつでも稽古する」と師は言われた。それができないから困ってるんです。「本当に変わりたいと思っていないからだ。変わりたければ今この瞬間に変われ」「Sさんのしていることは逃避だ」。ちがう、私のしようとしているのは対処だ。私なりの、変わろうっていう、不断の意志ってやつなんだ。

7. 師が仰るには、対処では卵は孵化しない。自分の武術を得る、殻を割って鳥になるという転換は、環境を変えるのでなく自分が変わることでしか起きない。

省みて、1の考えは間違っていないと思う。私は無知でコンコンチキの鳥頭かもしれないが、ねらいは師のお考えからそんなに外れていないと思う。つまり日々の稽古をただやる、ただやりたい、そのために具体的にどうするか、ということ。ぶつからずにゆける道(タオ)はどこか。