弟子のSです

武術の稽古日誌

組手は人なり

以前記事中に「単推手は人生だ」と書いたりしましたが、いま私は組手について表題のように思う。子供の空手を観察してわかるのは、いい組手をする子は、精神的に成熟した、端的に言えば「感じのいい子」だということ。落ち着いて相手をよく見、強気でも弱気でもなく、がつがつ前に出ず、後にも退かず、安定してなかなか倒れず、むろんのこと粗暴でなく、闘志の表れ方が静かで、勝負に恬淡としている。

ここで「いい組手」とは必ずしも「強い組手・相手を制圧する組手」を指さない。実際そういう子は常勝というのでもなく、女の子なんかだと負けてばかりだったりする。しかし何だろう、いい組手なのである。相手には負けても何かに勝っているというか・・。

「いい子」がイコール「いい組手をする子」であるならば、組手がうまくなりたかったら、いい人になる努力をすることだ。強いとか勝つとかは多分それから後のこと。というより生きていく上では、勝つ組手ができるよりもいい組手ができることの方がよほど大切に思える。

・・というわけで、今、志賀直哉を読んでいる。

というと唐突でしょうが、いい組手の反対を考えたとき、悪い組手とは「我」から解放されていない組手だと思うからです。

志賀直哉は神様ともうたわれた私小説の大家だが、同じ私小説でも「我」の垂れ流しみたいな太宰治と違い、その文章は幽体離脱して自分を眺めるようなもの。いま読んでる『暗夜行路』なんか、まるで凧を揚げる人が凧の視点から自分を描写したような、もう、ほとんど観察文である。太宰なら「苦しいああ苦しい助けて下さい」とか書くところを、志賀直哉だと「謙作は酷い苦しみを味わっていた」みたいな感じ。

おそらく未来永劫「文庫夏の100冊」から外れることはないだろう太宰と違い、現代で志賀を読もうという人は少ないのではないかと思う。『暗夜行路』は確かに面白いとは言い難い。人物に感情移入できないのが読み物として致命的である。先に挙げたように、「私」の感情を徹底的に対象化しているからだ。作者がすすんでそのように書いている。

だが人気の有無はともかく、志賀直哉のそうした思考法や文章作法は私にはとても武術的に思える。私たちが太宰に癒されるのは彼の弱さや苦悩に「共感する」からだけれども、志賀直哉は頭ひとつ抜けてそれらを「眺める」方法を教えてくれる。その習慣付けは私が「我」から解放されるために絶対役に立つはず。

Sはその試みがやがてよい組手に結実するだろうという希望を得、安らいだ心持になった。