弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

先週の金曜稽古にて。

「感覚」と「手順」について、ねじとねじ回しを例にとり説明を受けた。感覚の稽古のイントロダクションだったが覚え損ね、再度教えていただく。迂闊。

ねじ穴にねじ回しの先端を差し込んで回転させていく、その手順を知らなければねじは留まらないけれど、ねじ穴をつぶさないように加減するとか、ねじが倒れないように中心を合わせるとかは感覚なしにはできない。感覚と手順のどちらが欠けても技はかからないという話。

師「(武術するとは)たとえば放っておくと左に寄ってしまう車を乗りこなすこと」。自分はどういうクセを持った車で、どうすれば塀に激突したり人を撥ねたりせずにドライブができるだろうか?

幼児空手のアシストをしていると、人間にはクセがあることをしみじみと思わされる。たとえばある子は道場にはすすんで立つのだけれど、なかなか他の子と足並みを揃えて稽古することができない。接しているうち、手順を説明されるのは嫌がらない子であることがわかる。説明のタイミングしだいで動けることがわかる。そして、その子はそうでも、別の子はそうでない。

大人は自分という車のクセを自力で理解することができる(はずだ)が、子供にはまだそれができないから助けが必要だ。よい先生というのはそうした、複雑な鍵穴のような子供のクセを理解するのに長けた人なのだろう。私は教職には不向きな人間だけれども、こうかな?と差し出した鍵がうまくはまって子供が動いてくれた時のクリック感はなんとも言えないものがある。彼らに適切なメッセージを与えられる大人、良き「最初の一人」でありたい。

「愛」について改めて師に伺う。どうも私の連想するような、色恋の仲間のそれとは全然違うようだ。

梵語では生物を総称して「有情」と呼ぶそうだが、師によれば愛とは生物や生命と同じものであって、情があればそこに愛がある。それは意識以前の「在ろう」とする生体反応である。自分を残すこと。殖えること。つまり守ること、いつくしむこと。

私「恋愛とかの愛と紛らわしいので他の言い方になりませんか」

師「たとえばどんな」

私「生物が命をつなぐためにする護身反応、みたいな」

師「それって『愛』じゃいけないの」