弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

「柔よく剛を制す」はよく知られているが、それと対をなすものとして「剛よく柔を断つ」という言葉もあるそうだ。先週の金曜日はそれを稽古した。押し合って膠着状態でいるところを一気に断ち切って相手の力の方向に崩す。

柔の動きが太極拳らしさだとすると剛の動きは八極拳を連想させる。当日は震脚を使った発勁の仕方や用法もいろいろ稽古した。つかみどころのない太極拳の動きに対し、八極拳には静と動のめりはりがある。反作用を使った爆発的な動きだ。師のお手本を見ていて、この技を本気でかけたら大怪我したり死んだりするだろうと容易に想像できた。

柔は「制し」、剛は「断つ」。負けなしの千日手に持ち込むのが柔の戦い方ならば、剛は明らかに相手を拒絶する戦い方だ。一般的には前者が女性向きと言われるが、女でも剛の技が使えればいざという時なんぼか相手にダメージが与えられるのではと思うけれど、なにしろ用法を説明されただけでも(アブないなぁ・・)という感じなので、自分の中でどう位置付けたらいいのか、その扱い方がわからない(八極拳が若年の男性向けという印象が強いのは、稽古で体への負担が大きいからではないかと思う)。

それと今稽古しているのは、套路で斜単鞭から肘底看捶に移行する際に、左足を軸に体幹でコントロールして両手で円相を描き、左手に右手を連れていく(夫婦手という)動き。腕力に依らず、呼吸によるふいごの力を使って体幹で腕を大きく回すのがポイント。書道で大きな字を書くときの「懸腕直筆(ひじを浮かせ、筆を直立させて肩の筋肉で書くこと)」の要領に似る。

金曜日はそれで体育座りの人に対向して立ち、両手をとって立たせる稽古をした。腕力だと男性などとても持ち上がらない。むしろ腕はぶらんと下げ、息を吸って胸を張ることでクレーンのように体を使うと立たせることができる。

金曜日はほかに、太極拳の時間に師が「習慣や嗜好など後天的なものを取り除いていくと人間は皆同じ。だから自分の延長のように相手とつながれるし技がかかる」という話をされていた。

関連したことを最近考えていたから、やっぱりなあと首肯した。

考えていたのは、私が「私」として認識しているのは意識に過ぎず、本当は「私」というものには実体がないのではなかろうかということだ。それは、特別私がそういうタイプなのかもしれないけれど、気分に左右されずびしっと揺れ動かない「私」というものがどうも見当たらないからである。性格だって相手との関係によってどうにでも変わる(これらは今回のバイトで痛感した)。真の自分はどこにいるんだと考えた時に、そんなの意識上にはどこにもいないのかもしれないと最近うすうす思うようになった。

「私」に実体はないけれど、こうして(じっと手を見る)存在している自分の身体、人から見える自分には間違いなく実体があるわけで、この実体(object)、具象、形としての自分は自分でありながら「私」意識を超えたものであることを、何か敬虔な気持ちで眺めたりする。それは「私」なんかよりもずっと堅牢で確かな、信頼に足るものだという気がする。そして、objectであるという意味において他人やスズメや石ころとなんら変わりなく、私は、もう少し自分に対して「他人行儀」でいようと思うのだった。