弟子のSです

武術の稽古日誌

コロナ禍の真っ只中で考える

コロナウイルスの蔓延で世界的に「ステイホーム 」が叫ばれるなか、私も先月の25日を最後に稽古への参加を控えている。今まで年末年始に半月ほど稽古がなかったことはあるが、今回はそれをしのぐ、私史上初の長期休みになりそうだ。
ホットスポット東京に住んでいるうえ、我が家には82歳で要介護4の母がおり、母自身はもちろん、介護を担う私が感染しても大変厄介な状況になるのが目に見えている。なのでおとなしく自宅学習に励むことにする。

私は身体脆弱、頭脳不活発という点で、自分のスペックをある意味見限っていて、だからこそ弱者が死なないための技芸たる武術に惹かれもするのだが、「生きものがどんな術を駆使して今生きているのか」「死にかけているとしたら何が問題でそうなっているのか」といった生存戦略・サバイバビリティ(生き残り能力)について考えるのが習い性だ。

いつかの座学で、師がこんなことを仰った。
武術は暴力に対処する実用品だが、それを実用する機会を考えたとき、「素人の暴漢」に対するのと「格闘技の達人」に対するのとでは、どちらの機会が起こりやすいか。前者に市中で遭う確率のほうが圧倒的に高いのではないか、と。

誰と戦うか、どんな暴力と対峙するかによって、求められる強さの質も、勝敗の定義も変わる。師が私に求める「功夫(鍛錬)」はおそらく、「格闘技の達人を、彼の土俵で」制するためのものではない。鍛錬の方向性が間違っていると視野狭窄・思考停止に陥り、それこそ大局的には、やればやるほど、私は「死にやすく」なってしまうだろう。

広義にとれば、それこそ生活上で遭遇するあらゆる危機は、こちらの事情おかまいなし、うむを言わさぬ、という点で「暴力」だとも言える。
目下、「コロナウイルスという暴力に負けない」「(コロナウイルスがもたらす)生活難という暴力に負けない」を旗印に、それぞれの国民がそれぞれの国難と戦っている。立場や地域によって困り度の多少はあろうが、今回の災禍は地球上の人間に等しく降りかかった難題のため、各国の政策や為政者のスピーチを通して、それぞれの戦い方、「武術」を観察することができる。それはその国の文化や習慣、価値観、国民の気質の反映でもある。

多くの首脳がこのコロナ禍を「戦争」と表現しているが、敗者を必ず生みだす国家間のそれと違い、危機的状況におけるサバイバビリティそのものが問われるこの戦争は、その「武術」しだいで、すべてが戦勝国になり得るものだ。意志する全員が勝者になり得る。武術とはそもそもそういうものだと思う。

いつか必ず死ぬという意味において、すべての生物は本質的に弱者である。弱者が死なないための武術は、したがって、あらゆる時や場所、あらゆる状況下に要請される。視野狭窄・思考停止に陥らず、いま求められている強さは何か、ここにおいて勝ちとは何かを個人でも考え続けていきたい。
後年、あの災禍があって人類はより賢くなった、犠牲のうえに大切なものを得た…となってほしい。未だ見ぬ「暴力」は、コロナが去っても、いくらでも人生に立ち塞がるはずだから。