弟子のSです

武術の稽古日誌

武術日和下駄

『日和下駄』は永井荷風の随筆集のタイトルである。Kindleで無料だったので何の気なしに読んだところ、その端正な文体にすっかり魅了されてしまった。長いこと「浅草に通い詰めた色好みのおじさん」ぐらいの認識でしかなかったのが、今ではその人が「風景の詩人」と謳われ、多くの人に読み継がれてきた理由がよくわかる気がする。

荷風は生涯にわたって散歩を愉しんだ人であった。『日和下駄』は大正時代の、江戸の名残をとどめる東京の風景を綴ったものだが、その中で、散歩について次のように書いている。

・・目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺(ひきず)って行く中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝(どぶ)や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和してしばし我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。

「無用の用」である。「何もしない」をしている。

荷風のすごいところは、その散歩の「好きっぷり」が徹底しているところだ。日記『断腸亭日乗』を読むと、自宅が空襲に遭って焼け出され、東京を離れて地方の知人宅を転々としているときでさえ、部屋に落ち着くが早いか散歩に出かけてゆく。そして休むことなく日記を書く。その筆致は戦争の渦中にあるとは思えないほど「普段どおり」で、そのぶん読み手は感傷が胸に迫るのだが、「無用な感慨に打たれるのが何より嬉しい」散歩が傷心の荷風を支えていたならば、これこそが「無用の用」ではなかろうか。

さて、この「荷風の散歩」に惚れ込んだ後世のファンが、その熱意をもってどういう方向に進んでいくかだが、その方向性はおおむね次の2タイプに分けられると思う。

1 荷風の歩いた場所、彼が辿ったコースを訪ね、彼が見たのとそっくり同じ風景を見ようとする《聖地巡礼型》

2 荷風のスタイルを踏襲し、彼が散歩したのとそっくり同じ心持ちで自分も散歩しようとする《インフルエンサー型》

ファンなら両方したくなるのも頷けるが、大体はどちらかに比重が偏るものだと思う。1に傾くほどわかりやすくファンらしいというかマニアックというか、荷風その人への愛着が強く感じられる。トリビアに詳しいのもきっと1だろう。

2は一見するとファンらしさにやや薄い。理解への渇望が強いというか、どちらかというと観察者、研究者、実践者という感じだ。2は必ずしも荷風の歩いた墨東や浅草を訪ねないだろう。「荷風がそうしたように」自分の市中散歩を楽しみ、自分の見つけた裏通りを愛するだろう。その考え方と出合ったことで、自身の情緒や生き方そのものが影響をうけ、「その考え方を知らなければ、なれなかった自分」になる。2の態度を進めていくと、外形的には荷風と似ても似つかぬ人になっておかしくないのだが、その血肉には確かに荷風がいるのである。これは1において主客(好かれる側と好く側)が分離しているのと好対照である。

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荷風は散歩し、寂れた風景を飽かず眺めた。気に入った店があると通い倒した。燃えさかる家から日記の原稿だけ持って逃げた。日常を守ろうとする営為の、どんなエピソードも彼らしい。ストイックで享楽的。人真似がない。彼らしさを愛するということは、私が「私らしさとは何か?」と自分に問い、それを大切にするということだと思う。それは武術から問われることと全く同じだ。

時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと氣遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて歸る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴惡なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。(『断腸亭日乗』昭和16年1月1日の日記)

荷風は、戦争が終わっても「終戦」とは言わず「休戦」という言葉を使い続け、全財産を入れたバッグを常に持ち歩いていたそうだ。平和の裏には紙一枚隔てて戦争がある、と体で知っていた。戦争が人にもたらすインパクトを思わずにはいられない。