弟子のSです

武術の稽古日誌

近況

このところ同居の実母の日常生活にやや介助が必要になり、介護保険を申請したり居室を整えたり、しかるべき知識を仕入れたりしかるべき人に相談したりとせわしくしている。人を相手のことなので精一杯楽しくやっていきたいし、それができなきゃ今までの稽古は何だったのかということになるだろう。その気になれば、介護のある生活というのは、発見と出会いの機会にみちている。

実技では、目下、型稽古のためのオリジナルの型をつくるという課題に取り組んでいるところ。私独自の型をつくるというのは、ひとつには、母の見守りのため今後家にいる時間が長くなるだろう私が、道場を離れても稽古できるようにという師の配慮がある。

用事に追われていると頭(心・気持ち)が先行し、徒歩でも自転車でも、少しでも早く早くと前のめりの格好になりがち。だが歳をとればとるほど、頭でなく身体のペースで動くことが肝要になる。身体にできることが、つまりは「自分のできること」だからだ。

私の型は、情で煮立った頭を「心は自分ではない」とわからせて、「では自分とはなんなのか?」と武術の本来の問いに立ち返らせてくれるものにしたい。

稽古メモ

最近「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉を耳にする。人間のAIに対する優位性が逆転する時点のことをいうのだそうだ。

たとえばAlphaGoはディープ・ラーニングという学習能力を獲得し人間の棋力をあっさり抜き去ってしまった。「手筋」より「学び方」を身に付けたのである。私も武術は「技」より「考え方」と指導されて久しいが、成長速度では完全にAIに遅れをとっている。

言いたいのは私がAlphaGoより遅咲きだということでは勿論なく、このまま人間の脳を模して進化してゆくと遠からずAIが「意識」を持つ日が来るかもしれないらしいのだ。映画や小説みたいな話だがリアリティがある。

師が過日、ツイッターで「人間が恐れているのはAIに負かされることではなく、人間もAIと同じものにすぎないと分かることなのかもしれない」と呟かれていたが、人間の「意識」も神経細胞を介した脳の挙動であってみれば、ある意味において「人間とAIは同じ」であるとは当然言えると思う。
(思えば自らの帰属を「霊長」類と呼ぶほどに人間はその優位性に自信満々だが、自信を持つところをちょっと間違えてはいまいか。人間とAIは「同じであり、同じでない」。武術をやっているとこうした物言いが不自然でなくなる。)

何はともあれ、我々が「優位」感覚を抱くに足るような、実体としての「主体」はない、というのが最近の私の考えだ。「主体」という言葉は発した途端に世界を彼我に分離する。しかし(少なくとも太極の世界観において)彼我は別たれていない。我々は感覚の主人だから意識においては当然に自分が主体だが、それは「思い過ごし」だ。

太極拳を行うにあたり、「主体」やら「自己の優位性」といった概念をどう捉えているかはストレートに套路や技に反映されるから、ここはとても大事なところである。
たとえば太極拳では動作の目的に応じて自分の身体を滑車やジャッキといった「無機物」にトランスフォームするけれど、私(主体)がその無機物(客体)を「扱う」のでは太極拳の動きにならない。投げ技をかけようというときも、私(主体)が相手(客体)を「投げる」のでは太極拳の技にならない。

太極拳の動きは、自分の内外の「客体(価値観が加われば”異物”ともいう)」と「同期」しないとできない。というか、「主体」というものは幻想なのだ、と心底理解しないかぎりは嘘っこの同期しかできないだろう。

師から太極拳を習い始めて9年経つ。その間に教わる内容はかなり変化した。それは徐々にというより、ある時を境に、という変化の仕方だったように思うけれど、ここに来てまた新たなステージに踏み出しつつある。「動かす主体をなくすこと、なぜって元々ないんだから」みたいな感じに。動かす何かは厳然としてあるのだが、それは「私」ではない。

足は手につれ手は足につれ、というように主従が渾然とした動きを長く稽古してきたが、その「何かが何かをつれていく」動作を見えなくするという。書でいえば、因果の明確な楷書を研鑽した上で、楷書を「書きながら書くな」、それが草書だ、と言われているようなものだ。

むずかしい。武術を始めてからというもの、知力体力ともにスペック以上の課題にばかり取り組んでる気がする…。こうした学び方は人間独特、てか「弟子ならでは」かもしれない。

なぜ導師ウーグウェイはタイ・ランを後継者にしなかったか

自分は師から武術を学ぶ弟子である。
そう思い定めて私が勝手に精進するのはいいとして、長年うっすら疑問に思ってきたのは、師のほうではなぜ私を弟子と呼び、弟子として教えるのかということだ。(私よりも周囲の方のほうが不思議に思われているかもしれないが...。)
師によると、指導者という立場の人間ならば、教える相手がものになるかどうかは大体初見で見当がつくものらしい。いや、正確には「ものにならないかどうか」の見当がつくらしい。つまり「この人はダメだな」というのはわかるものだそうだ。
どんな人が「ものにならない」のか、武術家からみて「ダメ」なのか。師の思考に少しでも近づくよすがになることを願いつつ、2008年から2016年にかけて公開されたアニメ『カンフー・パンダ』の主に1と3について論考を試みる。

カンフー・パンダ (字幕版)

おおよそのあらすじは、カンフーファイターのイメージに全くそぐわないパンダのポーが、ひょんなことから導師ウーグウェイによって伝説の「龍の戦士」に選ばれる。指導をまかされて戸惑う師父や反発する兄弟子、あるいは家族や敵とのやりとりを経て、やがて村を守る戦士に成長し、ついには自分が氣を操る「龍の戦士」であることに目覚める、というもの。

ポーを教える師父にはもともとタイ・ランという、師父自らが「龍の戦士」と見なし手塩にかけて育てた弟子がいた。しかし鍛え上げられたタイ・ランを見ても導師ウーグウェイ(師父の師父)は首を縦に振らなかった。自分の後継者、龍の戦士ではないというのだ。

なぜタイ・ランではいけなかったのか。それに関連する台詞を探すと、兄弟子のトップであるタイグレスが主人公ポーに次のように説明する場面がある。「導師はタイ・ランの心に闇を見たの」。
養父でもある師父に「大龍(タイラン)」と名付けられ、偉大な戦士になる運命を言われるままに信じて疑わなかったタイ・ランの上昇志向は激しいもので、やがてウーグウェイによる極意の書かれた「龍の巻物」を欲しがるようになる。タイグレスによれば「彼は欲をかいた」のだ。タイ・ランを後継者と認めないウーグウェイは無論それを許さなかった。

結局あとでポーから奪ってタイ・ランは巻物を見るのだが、巻物にはひたすら何も書いてなく、彼は失望する。その様子は、巻物の空白の意味をつかんで学びとするポーと好対照を示す。
お調子者でミーハーな、太ってすぐ息切れする、カンフーファイターのイメージとはおよそかけ離れたポーには導師の伝書の意味がわかり、何十年も厳しい鍛錬に耐えて鉄拳や脚力や柔軟性を身に付けたタイ・ランにはその意味がわからない。そして彼がわからないだろうことを、負の資質を、導師はずっと以前に見抜いていた。

見るべき人が見ればわかる、「負の資質」とは何であろうか。

師父への恨みに燃えるタイ・ランに、かつての師父は「おまえは龍の戦士になる運命になかったのだ、私のせいではない」と言う。この言葉にタイ・ランはふざけるなと怒り狂う(そりゃそうだ)のだが、師父にしてみれば、導師が傍目には偶然(アクシデント)としか言いようのないきっかけで素人のパンダを龍の戦士に指名するのを目の当たりにし、さらにその後導師から「偶然というものは存在しない」と教えを受けている。「なぜ俺でないのだ」という問いには運命と答えるしかなかった。師父もいまだ目が昏かったのである。

ちなみに師父はこの後ウーグウェイの教えを理解し、シリーズの3ではポーの浅薄さを正して「殴る蹴るで敵と戦うことが龍の戦士の仕事だとおまえは思っているのか? 導師がおまえの中に見出したのはもっと大きなもの(greatness)だ」と教える。

導師が「何」をポーに見出したかは、物語の後半で「龍の戦士」として覚醒したポーに導師自身が語る言葉によって明かされる。導師は若い頃にパンダ一族の氣の力で命を救われたことがあり、真の強者、つまり龍の戦士が氣の使い手であると知っていた。そこに「偶然の、しかし運命的な」パンダのポーとの出会いがあった。

ウーグウェイ「出会ったその日に、私はカンフーの未来をあなたに見ました。(パンダに癒された)過去と、未来とをつなぐ者を見たのです。それが私があなたを選んだ理由です」

この台詞から推察するに、導師がタイ・ランを後継者にしなかったのは、彼にはカンフーの未来を見なかったから、ということになろうか。導師の視点は人よりカンフーにある。

タイ・ランの野心にぎらつく目を見て、導師は(そうした目をおそらく彼は何人も見てきただろう)それは「調和と集中の極意」たるカンフーに何も寄与するものではないと看破したのだと思う。「敵を倒す」「相手を凌ぐ」という相対性の中で上位に立とうとすることしか知らない者の中にカンフーの未来はない。ポーを後継者とした導師は、彼を「陰と陽の両面を併せ持つ者」と称える。パンダの白黒カラーがもじられていて可笑しいところだが、ここは同時に「相対性から自由な者」と読み解くのがふさわしいだろう。

自戒を込めて考える。相対性(上昇志向や目的意識)の虜になることなく修業を進めるには、人はどうしたらいいのだろう。
「武術から」自分へと届けられた道を見ようとすること、そこを歩むことではなかろうか。自分から「武術へと」進む道を歩くのではない。武術を未だ知らない「私」が武術を目指すことは理論上不可能だ。人は知っている場所しか目指せない。もしもそうしたら、武術を卑小化していることになるだろう。自分の知っているものに落とし込んでいるわけだから。
その偉大さ(greatness)を知っていれば、「私」は武術を指向できない。「もし誰かが僕を変えられるとしたら、それは僕じゃない。」あなただ、と師父に叫んだポーは未熟だが正しかったのである。

そしてこの台詞と好対照をなすのが劇中でいくつかのエピソードを通じて印象的に伝えられる、次のメッセージである。「教えられるものなんてない。秘伝なんてない。何かを特別なものにするには、それを特別と思うだけ」。秘伝、極意、強大な力・・血眼になって求めるべき特別なものなど本当は存在しない、それを特別にするのは個々人なのだ、という。

あなたが変わるとしたら、それはあなた自身によってではない
何かを特別なものにするとしたら、それはあなた自身によってである

カンフー・パンダ』は修行における主体のありかというものを考える上でとても示唆に富む作品だ。今回は敵役のタイ・ランについて考えたが、修行者であれば主役のポーの成長の過程からも得るものが多いだろう。彼を取り巻くキャラも魅力的で、まずアニメ作品として出色の出来だと思います。