弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

このところ、子供や年配の稽古相手にケガをさせる(幸い未だ大事に至ったことはないが、ヒヤッとするような)ことが立て続けに起きた。以前は自分がケガをすることが多かったが、どうしてこの頃になって加害者になる機会が増えたのか。私が自爆するのはいつも、強い相手に無理に勝とうとして背伸びした結果だった。しかし自分が全くそういう気持ちを抱いていない(むしろ優しく扱おうとしている)相手を傷つけてしまうということ、どの事例も私自身はまったく力んでいない「つもりの」ときに起きていること、そのことに恐怖を感じる。もともと「雑」とは言われていたけれど、その度合いがここで急に酷くなったとも考えにくく・・しかし私の「雑さかげん」を知る人は、今まで無事できたのが僥倖だったと思われるかもしれない。

師いわく、私は「オフと強しかスイッチのない扇風機」。力の加減ができない。

それと繰り返し戒められる「だろう運転」。自分がこうだろうと思った以上に強く相手に当てていた、自分がこうだろうと思った以上に相手が「こわれもの」だった・・・。「思い」と「事実」とが合致していないことが、ことが起きてからでないとわからない。

見ていると師も瀬尾さんも、子供や年配の人は投げない。投げても投げ切らない。正確に技をかけつつ、相手を見ている。そうして相当危険に見える技でも稽古させる。私にはとてもあんな芸当はできないと思う。しかしやるならそこまでできるようにならなければ、中途半端に技を身につけるのは却って危険だ。そこまでやる気がないのなら、師に以前言われたように、未知のものに自分が変わろうという学び方でなく、達成された姿が予見できる安全なお稽古事としてやればいいのだ。そんな武道・剣道教室は巷にいくらでもある。

私に痛い思いをさせられたどの人もやさしく、何もなかったように接してくれ、私は心で「ごめんね、ごめんね」と繰り返す。私が稽古をやめることをこの人たちは望まないだろう。でも稽古しなければこの人たちを傷つけずにすむ。・・いや、本当か? 本当の本音は、ケガさせると申し訳ないから、より、ケガさせると「私が困る」からではないのか?

もう、本当にいやになった。私は雑で冷たい人間、その自己認識を深く得たことだけでも今までやった甲斐があるじゃないかと思う。半世紀生きてきてそれがわからなかったんだもの。

絶望するより絶望しない方がいいから絶望しない、とかつて師は仰った。「稽古して悪い部分があきらかになる、結構なことじゃないですか。当然それを改善する方策は立っているのでしょう? 稽古は一人でするもので、道場は発表と実験の場です。試してダメならまた次の宿題にするだけです」。

でも「ダメ」だと怪我人や死人が出ることがある。それがこの世界の真の恐ろしさだ。暴れるのが楽しいとか、自分はどんだけナイーブだったのかと思う。

とにかく中途半端な現状に留まっているわけにはいかない。どこに進めば「死」を遠ざけられるだろう? 嘆くな考えろ。その選択を間違えないために今まで学んできたんじゃないか。